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奈良大学教授 白石 太一郎さんに聴く

[2008年2月19日]

元気八尾再生~まちづくり達人に聴く~

元気八尾再生~まちづくり達人に聴く~(白石 太一郎 奈良大学教授)写真

今回のまちづくり達人
 奈良大学教授 
白石 太一郎(しらいし たいちろう)さん

<白石 太一郎(しらいし たいちろう)奈良大学教授>
 1938 年、大阪市生まれ。同志社大学文学部文化史専攻卒業、同志社大学大学院博士課程単位取得退学。(財)古代学協会、奈良県立橿原考古学研究所、国立歴史民俗 博物館、総合研究大学院大学などをへて現職。大阪府立近つ飛鳥博物館長(非常勤)、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、本市の文化 財保護審議会委員を務める。

今回のテーマ「市民が歴史を体感できるまちづくりを」

白石:八尾市には高安千塚古墳群という、これは学会では知らないもののいない非常に重要な古墳群ですね。古墳にはですね、南河内の古市古墳群に代表されるよう な、非常に巨大な当時の大王の墓を含む大きな古墳群が集まっている古墳群と、逆に直径が10メートル、20メートルぐらいの小さな円墳が一定の地域に何十基、何百基と集まっている、そういうタイプの群集郡と2種類あるんですね。

その後者の小さい古墳がたくさん集まっている古墳群を群集墳と言ってるんですけどもね、日本列島にはそういう群集墳がたくさんあるんですが、その中でも、高安千塚というのは、日本でも最も代表的な群集墳といいますかね、古墳時代の後半期になってくるとかつては古墳をつくることなど考えられなかったような、そういう層にまでですね、古墳群をつくる風習がおよんでくるわけですけどもね。

各地にそういう群集墳が形成されるわけですが、その中でも特にこの高安千塚というのはよく知られているわけですね。
これは明治の初めにですね、東京大学にアメリカの生物学者ですが、モースという人、この人が横浜から東京への汽車の中でですね、大森貝塚ですね、貝がいっぱい散らばって、これは貝塚に違いないというのを見つけるわけですけども。日本ではじめて近代的な発掘調査をやるわけですね。

近代科学の方法で発掘調査をやる、これは日本の近代考古学のはじまりと言われているんですが、そのモースもですね、高安千塚を訪れて、スケッチなんかも 残しているわけですね。
それからそのほぼ同じ時期ですが、大阪の造幣局にオーランドという冶金学者ですけどもね、鋳造技術の学者ですけども、この人が大阪の造幣局に来てたわけですが、その人が余暇を利用して、近畿地方の古墳を調べまわっているのですが、彼も高安千塚に非常に関心を持ちまして、色々な記録を残してくれているんですね。

そういうことで高安千塚というのは、日本の群集墳を代表する古墳として学会では非常に有名なところですね。私がたまたま考古学の勉強を始めましたころですね、大学院時代に高安千塚についてですね、当時、まだどれぐらいの古墳が残ってるのかとかですね、どういう状況で残っているのか、いつ頃のものであるのか、というのが必ずしもよく分かっていなかったんですね。
そこで、少し調べさせていただきましてね、今から思うと全部はとても数えきれなかったんですが、二百数十基にのぼっていると。

そして、時代もですね、そういう群集墳としては比較的古い五世紀の終わりぐらいから六世紀代にですね、造られ続けた古墳であるということを調べさせていただいたんですけども、そのころからですね、当然ですね、国の史跡にでもして残さなければならない古墳群であることは分かってたんですけども、これがなかなか難しくてですね、他の地域でもそうですけども、そういう群集墳を一括で史跡なりに指定して残すということがなかなか住民の方々のご理解を得るのも難しいということでですね、そういう群集墳を史跡に指定している例というのはあまりなかったんですね。
私、その後ですね、千葉県の国立歴史民族博物館をつくるということでそれを手伝わないかと言われまして、向こうに言ってしまったもんですから、ただ、この高安千塚は非常に気になってたんですけども。

ところが最近、八尾市さんの方でこれを何とか保存し、活用し、史跡指定も考えていただいているということでね、非常に嬉しく思っているんですけどもね。

市長:本当に、八尾というのは歴史・文化が古いまちで、しかしその古さを八尾市民があまり知らないといいますか、そういったことでは非常に悲しいなと。あまりに身近すぎて、灯台下暗しに なっているのかも分かりませんけども、本当に身近にある歴史・文化を一つの教材、あるいは、市民の憩いの場といったらおかしいですが、学びと憩いの場に変えていければなというふうに思ってます。

先生も色々と過去からやっていただいた、そういう蓄積がようやく国の方も動かすことになったんだろうというふうに思っているんですが、昨年、私5月1日 に就任して、早速11月、ちょっと遅かったですが、東京に行かせていただいて、文部科学省の方には、ぜひ高安千塚を国指定にもっていきたいので、よろしくということでお話しをさせていただいたら、先人たちががんばってくれていましたので、そういう経過の中でぜひぜひということで、積極的に国も協力させていただきますと言っていただいているので、それに向けてさらに今年度は、動き出していきたいというふうに思っています。

白石:文化庁も高安千塚の重要性はもちろん分かっておるでしょうし、そういう広い地域の群集墳を史跡に指定するような例が必ずしもあまり多くないんですね、そういうことでそれは文化庁も非常に喜んでいると思いますね。

それから、高安千塚の重要性というのが、歴史的に重要なんですけども、その意義というのが実はなかなか難しい問題なんですけども、これはですね、お亡くなりになりましたけども、京都大学に岸俊男先生という古代史の先生がおられたんですが、この方がですね、ちょっと専門的になって恐縮なんですが、日本における古跡ですね、古の源流という有名なものをお書きになったんですね、そしてそれがこの南河内の高安郡からこの生駒山脈の一番南のはし安宿(あすかべ)郡 というのがあったんですけども、その高安郡と安宿郡にはですね、何々戸、戸籍の戸と書くんですが、「安宿戸」、これ「あすかべ」と読むようなんですが、それから高安郡内には、史戸、歴史の「史」と、「史」と「戸」と書いて、「史戸(ふひとべ)」、それから「橘」という字の下に戸と書いて「橘戸(たちばなべ)」とかですね、そういう何々戸という名前を持った人がたくさんいることが分かってたんですね。

ただそれはご承知のように「何々部(なになにべ)」というのが、かつてあったわけですね。大王家とか有力な豪族が土地とその地域の住民を「部(べ)」に 編成して支配していたわけですが、これもですね、「あすかべ」とか「ふひとべ」と読むんだろうと、「べ」と読むんだろうと、「べ」のことだろうと、いうふ うにみんな言ってた、考えられていたんですが、ところが、岸先生がお調べになると、南河内のまさに高安古墳群から安宿郡のところに限って「なになにべ」と 「戸」と書いて、そういう人たちがたくさんいたんです、今回。

これはやはり「べ」を「戸」と書いただけではないんだろうと。それがですね、おそらく朝鮮半島から渡来した人たちがこの辺にたくさん定着していたわけですね。そういう人たちを朝廷が、戸籍に組み込んで、戸籍を編むと言いますか、編んでそして支配をしていた。

これが後に律令時代になると戸籍をつくってそして人民を掌握し、支配していくわけですね。これは今でも市役所に戸籍課がありますけども、そういう人々を戸籍に組み込んで、そういうのが最初にはじまったのが、この南河内の特に渡来系の人たちがたくさんいた地域に、そういう渡来系の人たちをまずそういう戸籍に編んで、「戸」に編んでですね、したんではないかということを指摘しておられるんですね。

実はまさにその岸先生が指摘されたそういう地域にですね、高安郡には高安千塚というのがある、それから安宿郡の近くには、今柏原市になってますけども平尾山千塚といいますね、これは数では高安千塚よりさらにたくさん古墳群があるんですね。

最近では、私どもはどうもこの高安千塚とか、平尾山千塚というのが渡来系の人たちがですね、つくった古墳群ではないかと、そういう人たちが朝鮮半島にいるときからですね、やはりそういう「戸」というような、そういう家族を中心とするような集団構成を早くからしておってですね、そういう人たちがそこに住んでいたと。そういう人たちが、残したんではないかというふうに私は思ってるんですけどもね。

いずれにしても、そういう日本の古代史を考える上で高安千塚の重要性、非常に重要なんですね。

市長:昔は、多分この辺も海だったんだろうと思ってますし、やはり生駒山系のやまのえきといいますか、生活の大きな拠点であった、というふうには僕も推測はしているんですけども、まあ事実そうなんだろうと思いますけども。

白石:何といっても、河内のど真ん中で非常に重要な地域ですのでね、これは前に八尾市さんで立派に整備して、公園にしていただいたわけですが、心合寺山古墳そうですね、墳球の長さが160 メートル非常に大きな前方後円墳ですが、河内には古市古墳群というのがありまして、そこに大王のお墓がたくさんあるわけですが、その五世紀にですね、古市古墳群というああいう非常に巨大な大王のお墓が造られる。

その時期のですね、河内、他の地域では、この心合寺山ほどのですね、大きな古墳はまったく見られないわけですね。ですから、これは、要するに南河内にああいう大王墓が営まれた時期の中河内の状況ですね。五世紀のはじめには中河内にも非常に大きな力を持った、政治勢力がいて、それが心合山残しているんですね。

ところが心合山で終わって、あとはあまり大きな古墳がなくなってしまうんですね。
これはやはり、南の大王墓が、古市古墳群で段々大きくなっていくということとやはり関係があると思うんですけどもね、そういう日本の五世紀のですね、歴史を考える上で、心合山古墳の位置というのは非常に重要なわけですけどもね、ですから心合山古墳の存在とか、それから高安千塚の存在、考えますとやはりこ の地域というのは、やはり日本古代史の中でも非常に重要な地域であるということは、間違いなく言えるんですね。

だからこれは考古学では、なかなか分かりませんが、日本の古代豪族、特に五世紀から六世紀段階で、古代豪族でもっとも有名な豪族の一つが物部氏、これの本拠地がこの八尾市の南の方ですか、弓削、あの付近であったことが、これはもう間違いないわけでありまして、この物部氏は用明天皇が亡くなられた後です ね、そのあとの皇位継承を巡って争いが起こってですね、蘇我氏と争って、蘇我氏や聖徳太子の連合軍に敗れてしまうんですね。

残念ながらしかも聖徳太子と争ったということで、逆賊にもなっているわけなんですけども、しかしながら今でも八尾市内には物部関係の史跡がね、勝軍寺とか、あるいは物部守屋の墓とかまで、本当かどうか分かりませんが、大切に守り継がれておって、そういう物部氏関係のですね、伝説とかそういうものが非常に濃密に残っている。
そういうことからもこの地域が物部氏の本拠であったことは間違いないわけですね。そういう意味からもですね、この日本の古代の歴史を考える上で、八尾の古墳時代の古墳や遺跡が非常に重要な役割を果たすと言うことは間違いないんですね。

市長:そうやって 掘り下げていくと、八尾のまちって面白いんですけども、先ほども言いましたけども、あまり知られていない。ですからね、そういったところの八尾の歴史を紹介、するそういった古代史も含めてね、何かに形として残していきたいというふうには思っているんですね。
また、本年が市政施行60周年ということで、高安古墳群を含めてシンポジウムを開催させていただくということで、先生には大変ご苦労をかけますけども、こういったことを一つの契機にしながらですね、さらに掘り下げて全国発信をしたいなという思いがありますね。

白石:結構だとおもいますね。それからもう一つ、JRの久宝寺の駅前、今再開発でものすごく立派なですね、高層マンションが建つと伺っているわけなんですが、八尾にも新しい住民の方がどんどん今後増えていくわけですね。
こういう歴史のあるまちですから、やはりそういう自分たちは八尾の市民であるというそういう誇り、アイデンティティといいますかね、そういうものを形成するのやはり古代のそういう遺跡とか、あるいは中世にはここは久宝寺、八尾、萱振、三つの全国的に有名な寺内町があったんですね。

この前、八尾市の方で、久宝寺御坊と言われている顕証寺さんの表門とそれから前の築地塀のところを指定されましたけども、見事なものが残っているんですね。
さらに本堂はそれよりも古い、十八世紀のはじめぐらいですかね、まだ残っておって、しかもこれは石山本願寺の歴史と直接結びついている非常に重要な中世から近世への日本を考える上で重要な遺跡ですね。しかも久宝寺などには寺内町とか、古いまちなみの面影が残っているんですね。

それから八尾もそうです。寺内町の八尾もそうですし、久宝寺も古い時代の絵図が残っておって、本来のまちわりがはっきり分かるわけですね。
そして、それが今のまちわりと合う部分があってですね、八尾市さんの方でその辺も非常に丁寧に調査されてですね、街角にその辺のですね、旧寺内町との関わりを示すような、説明板を立てておられますけども、ああいう寺内町の存在とかですね。

それからさらに近代に入りましたら、大和川の付け替えでね、これは私専門外で、あまり詳しく知りませんが、鴻池とか住友とか、この八尾の方がね、非常に大規模な新田開発をおやりになられてですね、植田家住宅ですか。

市長:
そうですね。旧植田邸。家がすごい近所なんですよ。

白石:そうですか。その新田開発のお宅の今、修理をされているようですけども、ですからそういう単に八尾の歴史、大阪の歴史というだけじゃなくてですね、その日本史全体を理解する上に重要なですね、いくつかの寺内町とかですね、近代のそういう大和川の付け替えに伴う新田開発で、教科書に出てくるような重要な歴史を物語る遺跡が本当にたくさん散らばっているわけですね。

ですからこれはやはりそれをまちづくりの基本の見据えていただいて、特に新住民の方々も自分たちは八尾市民であるというアイデンティティ、自覚を持っていただくのに、格好の材料、これを使わない手はないと私は思うんですね。

市長:僕もあまり歴史・考古学というのは得意ではないんですが、ただ本当にね、八尾のまちを選挙で色々なところ歩きますよね。そうすると面白い発見がいっぱいできる、例えばお寺だって八尾には九十九もあるんですね。神社は相当数がありますし、本当にそういう意味では八尾の中だけでも、面白いことができるんではないかなとかね。

それからそれがやっぱり脈々と寺内町をつくったり、昔の当然、京都であるとか、奈良であるとか、当時の徳川家康との戦争も含めてこの辺も戦場であったりとか、非常に大きな流れを感じる。

今、先生おっしゃったように、物部あるいは蘇我との争いで、これが物部が勝っていたら、この辺はどうなってたんだろうとか、そんなロマンをかき立てながら、古墳を見るというのも大切ですし、本当に歴史の散策に十分値をするものだと。本当にそれを調べていないと言うのが残念でありますんで、もうちょっとその辺をきちっと掘り下げて、アピールできるような仕組みをね、作りたいという風に思っていますので、その時には先生にも色々な角度で力をお借りして。

白石:最近、私、 千葉にですね、歴史民族博物館つくっているんで、そちらのお手伝いを二十数年間していましてね、四年前に関西に帰ってきたんですけども、そして八尾市さん の方で史跡にして残したいということで、手伝ってくれないかと言う話でこれは喜んでやらせていただきます。
そしてこの頃、八尾、時々見せていただいているんですが、何といいますか、市の文化財関係の職員の方々、非常によく勉強しておられてね、古いものばかりでなくて、寺内町の非常にレベルの高い案内板を各地に持っておられて、非常にがんばっておられるのが良く分かりますね。
これはですね、そういう史跡として住民の方が誇りをもっていただくとかね、そういうことももちろん大切なんですが、ただまあ、大阪全体は私ももちろん大阪生まれなんですけども、自然が一番残っていない地域ということになっているわけですけどもね、生駒山麓、生駒山の麓も開発が進んできているんですが、生駒山の勢力地域でまさにこの高安山の辺が一番、これ昔の里山の景観が、非常によく残っておって、まさに高安千塚もその場所にあるわけですね。

これは八尾の方々はもちろんですけども、大阪の人たちですね、大阪の方々がまさにこの高安山の自然景観といいますかね、里山として長い間人々が大切に守ってきた自然景観の中にこの高安千塚というのがあるわけですね。

それから今まで史跡に指定してそれを整備していくという手法についてはですね、心合山古墳が非常にいい例なんですが、発掘調査をして造られた当時の状況に復元してしまうと、これはこれで結構なんですが、まさに心合山はそれでですね、非常に分かりやすい造られた当時の古墳のあり方、それからすぐ横に学習館を造って、出てきたものなどのレプリカなども置いて学習していただけるようにして、それはそれで大いに結構なんですが、ただ史跡の整備の仕方としては、そういう全部そんな古い時代の状況に復元してしまう手法が絶対とは私思わないんですけども、むしろ高安千塚というのは、実はこれ私どもが大学院生時代に、うろうろしていたころと、そんなに変わっていないんですね。

あそこは植木屋さんがたくさんあってですね、非常に有効に土地利用しておられるわけですね。古墳を残しながら、古墳の間でね、だから大きな開発がなかったんだと思うですが、今年はこれからもそういう形でですね、あそこはそういう植木屋さんたちが、ずっと今後も今までと同じようにね、利用し続けていかれた らいいと思うんですね。

そしてただ古墳の部分だけはそれをつぶさないように排除していただいたらいいんでね、何が何でも全部ですね、徹底的に発掘調査をして、昔の状況に復元し てしまうのがいいとは限らないわけで、長い歴史の間、その地域の住民の方々が史跡と共存してこられたわけでね、それを今後も残していけばいいわけであってですね、ですから今までの古墳のそれとは違ったそういう保存活用のあり方ですね、そのモデルケースになるんではないかなと思うんですね。

市長:
先生、今度、JR久宝寺駅のところにはですね、45階建て、42階建てという超高層マンションが来る。

一方では、そうやって歴史の深い高安千塚古墳等々がある。こういうギャップをですね、非常に今度はまた、まちの売りにするとか、それから今先生言っていただいたように、残し方についてもですね、本当に全部復元するというのではなくて、本当に見ていただくことも大切ですが、そっとこれからもずっとそのまま で残していくことが必要やと思います。

そうするとまちづくりと俗に言う、例えば調整区域が非常に残っている中で、ずっと残ってきたという経過もありますし、ただお隣の東大阪と比べていただいたら、もう山の中腹といいますか、そこまで住宅街がせまってきているんですが、八尾は、そういう意味では調整区域の中で、住宅や開発ができなかったと。

だからせっかくそういうところで、ずっと保存がされてきたものを今度はまちづくりと文化・歴史を学ぶ、そしていいプラス材料にしながら、どう守りこれからも育てていくか、ということがやっぱり大切だと思っていますし。

ちょうど線引きといいますか、都市計画の見直しが次は平成22年ぐらいなんですけど、やはりそれとですね、まちづくりをマッチしていかなければならないというふうに思っていますし、特に山手は造園屋さんも多いですし、それから八尾では近郊農業でなかなか美味しくそして若ごぼうや枝豆なんかの生産高も非常 に高いですし、農家としてもがんばっていただいている。

やはり農地もちゃんと確保しながら、そして造園、緑豊かと言うことも売りにしながら、そういった中での八尾の市民が憩える場所、あるいは八尾のまち、住民がそこにもやっぱり住みたいなと、しかしそれもやはり秩序ある一定の整備をしながら、緑を大切にしてもらう景観をつくりたいという思いが非常に強いんで す。そこはやはり強いリーダーシップを持って、行政がやはり介入といえば語弊があるかも分かりませんが、住民や地権者ときちっと話をしながら理解をしていただきながら、ご協力をいただいて、そしてやはりまちづくりを進めたいと。これは必ずこれからも未来永劫ね、高安山の歴史景観を残していける大きなやはり分岐点になるのと違うかなという思いはしています。

白石:考古学では古墳とか、昔の村の跡とか、遺跡といっているわけですが、遺跡と言うのは要するに、かつて人間が生きていくために、この大地に働きかけた跡が遺跡ですよね、何らかの目的を持って大地にあったわけですからね、その遺跡と言うのは理論的に考えても全部残すなんていうことはできないわけですね。

これは一度人間が働きかけた跡をもう一切触ってはいかんということになると、これは生きていけなくなるんですね。だから私は遺跡と言うのはね、どんどんどんどん人々が新しい手法でその土地に働きかけて、自分たちの生活を豊かにしていく、これは当然ですから、遺跡というのはこれは当然破壊されていくと、こ れはまあ運命的にそういうものだと思うんですね。

ただしですね、やはり日本の歴史を考える上で重要な遺跡とかですね、地域の歴史を考える上で、重要な遺跡と言うのはこれはですね、やはり残していかなければですね。
ですから高安山千塚なんかもまさにそうなんですけども、それは、この地域の里山の景観がよく残っていると言うのはやはり造園業の人たちがですね、古墳と共存しながらね、何というか古墳を守ってきていただいたから残っているわけで、今後もそれを続けてきていただいたらいいし、ただやはり市民の方々やあるい は大阪府民の方々が、これやはり自然景観に親しんでもらう、ハイキングに来ていただくとともにせっかくそこにそういうものがある、重要な遺跡があるわけですから、そこでですね、古墳に触れて、高安千塚には非常に見事な横穴式石室がいっぱい残されているわけですね。

その古代の人たちの技術力の素晴らしさを実感していただけると、重要な遺跡ですから。ですから一部を、ごく一部を古墳、横穴式石室を持った古墳とはこういうものであって、高安千塚の歴史的な意味はこういうものだと学習していただけるような、そういうところは一部つくってですね、そしてハイキングを兼ねてですね、そういう歴史の勉強をしていただけるようなね、そういう形の遺跡の残し方をですね、これ心合山でね、ひとつやっていただいているわけですけどね、高安山千塚でもそれとはまた、やや違った形のね、残し方をね。

市長:
そういう意味で言いますと、今おっしゃったように、心合寺山があり、うちの歴史民族資料館がございますし、高安千塚もあります。
あと面白いのでは、超近代的ですが、戦争当時のですね、掩体壕も残ってたりとかね、そういう古代・中世・近代にわたるまで、山麓には本当に豊富なものが いっぱいありますので、それらを点を線で結びながら、それがやはり歴史・文化を学んでいただく、あるいはその時代・時代の背景をつぶさに見ていただける仕組みづくりが八尾のまちでも十分できるというふうに思っていますし、また、こっちに下りてくれば先ほどから守屋や聖徳太子やとか寺内町とか、つながるものがたくさんありまして、そんなことを今度は八尾市内全域を面で抑えていくような、そんな仕組みを考えたいというふうに思っていますし、そんなんを考えていたら本当に楽しいですね。
やはり住んでもらえる、八尾市民が楽しいまち、ロマンがあるというか、そういったところで生きていただくというのは僕は素晴らしいなというふうに思いますし、今なかなか拝金主義やとか何やかんや言われながら、心にゆとりがないと言われておりますので、子どもたちにはそんなとこを学んでもらう、大人もそうですけどもそんなところを見ていただいて、ちょっと昔のロマンに触れながら八尾を良くしようと。やはりそれを大切にするということは、どの地域においてまちを大切にすると言うことにつながると思うんです。

やはりどう大切に保存していくのか。残していくのかという、残さなければならないものを残すみたいなところのね、意識というのは、そういう古来からのものを見て、初めてこんな古いものが残っている、こんなものが八尾にあるという、そういう心の新たな洗浄というかその中で大切にしなければならないものがね、見えてくるのとちがうのかなと思ったりもしています。

白石:市役所のすぐ近くに、環山楼がありますが、これはまさに八尾の石田利清さんが私費を投げ打って、そういう私塾を作られる。
ですからまさに八尾の市民の方が自らね、そういう子弟の教育とかね、あるいは文化の尊重というようなことでね、江戸時代から考えておられたことが分かるわけなんです。
ああいうものは最初に申し上げたように新しい住民の方も含めてね、八尾市民の方々が自分たちは八尾の市民であるという誇りとアイデンティティを持っていただく上にさらに活用していただけたらと思うんですね。

市長:僕がたまたま市議会議員のと き、一回38歳の時に市長選挙に出ているんですね。その時は負けちゃって、それでまた府会議員になって、また50歳で今回チャレンジして、5月1日から10ヶ月なんですが、ちょうど浪人している時に、環山楼塾をモデルにして、八尾市と商工会議所が次世代後継者育成セミナーということで環山楼塾というのをやってきたんですね。
それがやはり、次代を担う子どもたち、あるいは次の将来を受け継ぐと言うことで、環山楼を一つの拠点にしながら学び屋で、一年で一期30人、それで十期までやりましたので、卒業生300人おるんです。そのうちの一人なんです。

今回もそういう意味でいうと環山楼塾ということで、環山楼の市民塾ということで、歴史・文化をもう一度今度は歴史・文化を市民レベルで一回研究してもらおうということで、環山楼市民塾というのを開催させていただく。
ネーミングも色々と庁議でも、相当議論になったんですが、いいネーミングをつけていただいたなというふうに思っていますし、ちょうど市役所のすぐ横でございますので、そういったところで本当に昔の寺子屋といいますか、学びをもう一度歴史も振り返りながら、一方ではやはり近代政治といいますか、近代行政のあり方についてもね、そういったところで自分たちのまちが、どうあるべきなのかというそんな議論もその場でしていただきたいとは思っているんですが。

白石:まさに石田利清さんの精神が今も八尾に生きている、八尾には生きているというのは素晴らしいことですね。

市長:
先人の皆さんから言うたら、 例えば、恩智左近があったりとか、物部守屋もそうでうすが、弓削道鏡もそうですし、それをそんなことも含めて、第一回の文化賞が今東光さんで、「悪名」で あったりとか、これはもう非常に近代の話ですけれども、何かやはり十分歴史的に色んなものが存在しているまちなんで、うまくコーディネイトすれば、古代・中世・近代も含めて、ロマンのあるまちになると思っています。

白石:八尾はまさにそういう日本の歴史自体を考える、考えさせる重要な歴史遺産に恵まれているわけですからね、ここでの日本史の教育なんかもね、教科書はあるんですけども、やはりそういう地域の歴史遺産を中心に、日本の歴史を学ぶことも十分可能なわけですからね、だから学校現場なんかでもですね、そういう努力をしていただければ、非常にいいんじゃないかと、日本国中どこでも同じ教科書で、同じ教科書を使うのは結構ですけど、同じ日本史教育ではなくて、地域に即した日本史教育があってもいいと私は思いますけどね。

市長:本当に、身近にあるわけです から、あっちこっち行かなくても、八尾の中をちょっと歩けば、歴史・教科書に出てくるものが、触れ合えるわけですから、これほど学校教育に、単に本で読 む、写真を見るというのではなくて、目の当たりに見えるというのは本当に素晴らしいことだと思います。

白石:それから、高安山の上には高安城というね、古代のお城があったんですね。これは残念ながら、その実態、今の段階でよく分かりませんが、奈良県側にも及んでいたことは間違いないわけで すが、高安城というこれは、天智天皇が築いた古代の山城があったことは間違いないん。一部、遺構が奈良県側で見つかっているですね。これは、7世紀です ね、朝鮮半島で百済が新羅等の連合軍に滅ぼされてしまうんですね。
日本が一番密接な関係を持っていたのは百済なんです。百済が滅亡するわけです。その時、日本は百済を援助するため大軍を送るわけですが、白村江の戦で唐・新羅の連合軍に敗退するんです。

これは当時の日本にとってはたいへんなことであってですね、唐も新羅を助けているわけですね、それの連合軍と戦争して負けたんですね。
そうすると当然、唐・新羅の連合軍が海を渡って日本に攻めて来る恐れも当然感じたわけですね。

だから天智天皇は、滅びた百済の技術者なんかの援助を受けて九州から瀬戸内海沿岸、それから高安にかけて、大きな朝鮮式の山城を造るわけですね。それがこの高安山なんですね。
そしてそれは大変な当時の7世紀後半の倭国にとっては、たいへんなショックでもあったわけですね。唐・新羅の連合軍がいつ攻めてくるかも分からない危機の時代ですよね。
それが結局、日本の古代国家を日本もやはり中国に倣った大王を中心とする強力な中央集権的な国家にしなければいかんということで、それがきっかけで日本の古代律令国家というのができあがったわけですね。

市長:国家形成の原点みたいなものですね。

白石:そうなんです。だからまさに日本国家形成のおっしゃるとおり原点の一つがこの高安城でもあってね、ですから、そういう非常に重要な歴史遺産に恵まれている八尾ですからね、ぜひ学校での教育なんかもそういうものを活かした教育・教材づくりなんかもやっていただき、日本史教育をしていただければと思いますけどもね。また、これは学校だけではなくてね、市民の方々も、そういう石田利清さんに習って、自ら勉強するようなね。

市長:渡来人の文化という話もありましたように、平野には百済がありますし、僕らのとこには龍華がありますね、これも当然そういう意味でいえば渡来文化の名残というか、名前というか。そんなところが他にも八尾には色々あるのかな。地域的な名称で。龍華というのは今なくなっちゃいましたけども。刑部とか、弓削もそうでしょうしね。

白石:最初の高安千塚に戻りますが、実は高安千塚の古墳というのは小さい古墳がたくさん集まってる群衆墳だと申しましたけども、その中では、後期の群集墳の中では、個々の古墳が非常に立 派なんです。立派な横穴式石室がたくさん残っているんですね。これは、横穴式石室の中でも大きなものは、60メートル級の前方後円墳、当時の有力な中ク ラスの豪族が造ったお墓ですね。それと同じような立派な石室がいっぱい造られているわけですね。ですから、高安千塚を残した人たちですね。これは六世紀段 階が中心だと思いますが、非常に大きな経済力を持っていたんですね。

それからもう一つ面白いのは、高安千塚というのは、大体、六世紀代のものが中心で、七世紀になると、あまり古墳造られなくなるんですね。これは南の平尾山千塚、柏原市域の平尾山千塚と大きな違いでね。
平尾山千塚の方は、七世紀になっても依然として同じように古墳が造られ続けます。非常に大きな違いがあるんですね。
それはどういうことかというと、おそらくですね、これはどちらも渡来系の集団が残したものだと思いますが、その渡来人がですね、高安千塚を残した集団 は、やはり物部氏と密接な関係があってね、物部氏の支配下に入っていたと。それから平尾山千塚を残した集団は、蘇我氏の支配下に入っていた。だから七世紀 になっても依然として作られ続けたんですね。
そういう違いがあるんではないかと。だからやはり高安千塚は渡来系の人たちが残したものだとしても、それはやはり物部氏との関係を抜きには理解できないんだと私は思っているんですけどもね。
いずれにしても非常に日本の古代史を考える上に、決定的に重要な歴史遺産がね、本当に濃密に分布しているわけですからね。

市長:可能性がありますね。楽しくなりますね。

白石:ええ。ですからこの秋に計画をしていただいております、高安千塚をめぐるシンポジウムも、そういう大きな問題、歴史を考える上で、高安千塚がどうして大切かというようなことを市民の方々にも理解し、一緒に考えていただきたい。それとともに高安千塚を今後の八尾市の人々の生活にどう活かしていくか、そういう問題をあわ せて考えていただく機会になればというふうに思いますけどもね。

市長:古代・中世・近代史を僕は作 りたいんです。それは、課長にも言ってましたんですけども、どれぐらいかかるというような話もしていたんですが。時間かけて色んな文献の調査だとか、本当に現地調査だとかしながら、もう一回、八尾再発見といいますか、ルーツをもう一回探るみたいなことも大切だと思っていますし、そのことはやはり知って住んでいただくという。
やはり、まちを大切にすると、きれいにしよう、守ろうというね、誇りあるまちになるんじゃないかなというふうに思っているんですね。
だから多分知らない人は27万3000人いますけど、知らない人の方が多いんじゃないかなという思いがありますし。

白石:今は都市問題というのが、八 尾市も大都市ですから、大きな問題になってきていますけども、まさに寺内町の歴史なんていうのは、日本における今後の都市のあり方を考える上にも、私専門外ですけども、色々参考になることが大きいんじゃないかと思うんですね。まさに八尾にはそういう日本全国的に有名な寺内町が3つもあるわけですからね、そういう都市研究の、中世から近世にかけての都市研究のひとつの中心にもなっていっていただければと思いますけどね。

市長:シンポジウム、非常に楽しみにしておりますし、また、先生のお力を借りて本当に古代史からの文献をもう一回紐解いて、八尾が脚光を浴びれるような仕組みづくりを先生とまた。

白石:
ぜひ、がんばっていただきたいと思いますね。

市長:今後もぜひよろしくお願いを申し上げます。
元気八尾再生~まちづくり達人に聴く~(白石 太一郎 奈良大学教授)写真

平成20年2月19日

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