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第11号 高安の物語に心を寄せた近代の文人

[2016年1月22日]

第11号 高安の物語に心を寄せた近代の文人

 高安には数多くの魅力があふれ、古くから記録が残されていますが、近代に入っても変わらず多くの人を引き付けました。昭和16年10月に奈良を訪れた作家の堀辰雄氏は、次のように記しています。

 『きょうははじめて生駒山を越えて、河内の国高安の里のあたりを歩いてみた。山の斜面に立った、なんとなく寒ざむとした村で、西の方にはずっと河内の野が果てしなく拡がっている。ここから二つ三つ向こうの村には名だかい古墳群などもあるそうだが、そこまでは往(い)って見なかった。そうして僕はなんの取りとめもないその村のほとりを、いまは山の向う側になって全く見えなくなった大和の小さな村々をなつかしそうに思い浮かべながら、ほんの一時間ばかりさまよっただけで、帰ってきた。こないだ秋(あき)篠(しの)の里からゆうがた眺めたその山の姿になにか物語めいたものを感じていたので、ふと気まぐれに、そこまで往ってその昔の物語の匂いをかいできただけのこと。』

 実際にはわずか1時間ほどの滞在でしたが、大和路を主題にした旅の途中で高安へ立ち寄ったのは、伊勢物語への関心から生じたようです。

 また、大正・昭和の演劇研究の第一人者である木(き)谷(たに)蓬(ほう)吟(ぎん)氏が大正4年2月に訪れた際のことを、次のように記しています。

 『茜(あかね)色の雲の流れに夜は全く開け放れると、東方一帯、我が大阪の都市を護(まも)りの城壁のようにズラリと聳(そび)え立つ生駒連峰の雄姿が、今日は殊(こと)更(さら)眼に新しく映(えい)じるのである。生駒の連峰!私は仮に大阪の東山と名づけてみた。(中略)殊にその北高安の里、字(あざ)神(こう)立(だち)の丘というは、(中略)恐らく東山山系中、最も戯(ぎ)曲(きょく)的(てき)情調に富んだ一画であると思う。私は業(なり)平(ひら)が河内通いの恋女、高安の姫の情話を探るべく、全村ことごとく梅花と謳(うた)われた高安の丘、村娘凡(すべ)て美姫と記された神立の里を指して浄(じょう)曲(きょく)行(あん)脚(ぎゃ)の杖を曳(ひ)いた。』

 生駒連峰を大屏風として「花の釣(つり)枝(えだ)に絵看板を並べた木戸前の図」に例え、浄瑠璃の大阪に格好の表構えであるとした木谷氏は、この時、八十代の古老が唄う河内音頭も聴いています。

 高安を書いた文人に心を寄せながら、春のひとときに高安の里を歩いてみませんか?高安を書いた明治・大正の文人の情報をお持ちの人は、魅力創造室までご一報ください。

 

※1『大和路・信濃路』(昭和43年発行 新潮文庫) ※2『畿内行脚』所収の大阪戯曲名所記(大正8年発行金尾文淵堂)

【PDFデータ】八尾魅力発見! 第11号 高安の物語に心を寄せた近代の文人

記事の掲載後に寄せられたお声について

・高安月郊(本名 三郎)という明治期の詩人・劇作家がいます。その方が記された「高安乃里」(昭和9年6月14日 書物展望社発行)には、次のように記した高安に関する文章があります。

「私の氏は物語、謡曲、浄瑠璃にあるので、よくそれ等と関係があるのかと問われる。しかしそれよりも更に古く壬申の乱に、弘文帝の為に戦うた壱岐韓国という者があった。一たび敵を衛我川に破ったが、次で葦池に破れ、河内の高安の里に隠れて、子孫其里の名を氏とした。大阪に移ったのは天和頃である。(中略)

 さてはどこまでも葛藤の里、然も美しい葛藤の里、所詮葛藤を免れぬ人生、美しいのなら醜いのや、平凡なのより真実がある。吾祖先の里にふさわしい。

 山を下りて見かえると、土佐画の様な山にまばらな小松、赤房つけた白馬に乗った昔男が其間を通うて来る様であった。吾家の出どころ訪へは恋の里 悲劇の里は今花のさと」


・また、さまざまな高安に関わる資料をご提示いただきましたので、機会を見てご紹介できたらと思います。


これからも、高安山を含めた八尾の魅力ある地域資源を随時紹介していきますので、ぜひよろしくお願いします。

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