曙川の名所・旧跡

ページID1011294  更新日 令和7年1月30日

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曙川出張所管内の名所・旧跡

曙川地区

名所・旧跡

所在地

善立寺 八尾木2丁目
東弓削遺跡 八尾木1~6丁目ほか
刑部地区

名所・旧跡

所在地

由義神社と由義宮址 八尾木北5丁目
高松信重墓 八尾木北4丁目
中田遺跡 中田1~5丁目ほか
柏村新田  
六カ地蔵尊 刑部2丁目
柏村稲荷神社 柏村町4丁目
曙川東地区

名所・旧跡

所在地

弓削神社 東弓削1丁目
二俣 二俣1丁目
都塚  
大塚 都塚1丁目
弁財天塚  
都留美嶋神社 都塚3丁目

曙川出張所管内の名所・旧跡散策コース

由義神社と由義宮址

写真:由義神社
由義神社と由義宮址(ゆげじんじゃとゆげのみやあと)

由義神社の祭神は素戔鳴命(すさのおのみこと)で、古く牛頭天王といいました。由義宮の設けられた時に勧請されたものと伝えられます。境内に由義宮旧址の碑があります。弓削道鏡が、称徳天皇の信任をえて、その郷里に設けられた行宮で、のちこれを由義宮となし、神護景雲3年(769)10月30日天皇行幸にあって、ここを西京となし造由義大宮司や造由義寺司がおかれ、また河内国は河内職とされました。宮域は大県、若江、高安の3郡にわたる広大なものでありました。宝亀元年(770)2月27日、6月10日に天皇は由義宮に行幸されました。同年4月5日には由義宮に寺塔が建てられました。この時、天皇のために「船連浄足など一族の長老らが歌垣を催した。」と続日本紀にあります。

南方には由義寺が設けられ、その名残りの金剛蓮華寺は、天文22年(1553)に三条西公条(さんじょうにしきんえだ)が吉野詣の途中にここに参詣し、八つ尾の鶯の名所であったと聞いています。今に大門の字名があります。

高松信重墓

写真:高松信重墓
高松信重墓(たかまつのぶしげはか)

由義(ゆげ)神社の西方、公園横にあります。5m四方の雑木の繁みの中に、自然石で“高松信重墓”とあります。応仁文明の乱に、細川勝元にしたがって、この辺で戦死したものと伝えられます。おこりの神としての俗信仰があります。

善立寺

写真:善立寺
善立寺(ぜんりゅうじ)

浄土真宗本願寺派の寺院。江戸時代、八尾木村総道場善立寺といいました。寛延2年(1749)ころ、八尾木村の木綿屋利右衛門の娘おしもという人がいて、大変信仰の厚い人ということで、「妙好伝」(1842年)という浄土真宗の信者の伝記に載っています。天文22年(1553)3月10日、京都の公家三条西公条は、信貴山から八尾木の金剛蓮華寺に詣で、村人から、ここ八尾というところは鶯の名所で、普通12枚重ねの尾がここは8枚重ねで優れているよしを聞きました(吉野詣記)。

この金剛蓮華寺は、善立寺の付近、小字の地名に大門、堂の前、婆々泣、焼垣内などがあり、この付近にあったのではないかと考えられています。

なお、八尾木の不動尊では、8月28日の例祭で、農作物でとれたものを使って「つくりもの」を作り、奉納します(現在は、9月末に実施)。興味のある民俗行事です。

境内には、八尾市保全樹木の大イチョウがあります。

弓削神社(東弓削)

写真:弓削神社
弓削神社(東弓削)(ゆげじんじゃ ひがしゆげ)

延喜式神名帳には、河内国若江郡に弓削神社二座が載る大社。江戸時代になって、この弓削神社二座を比定するにあたって、「河内志」以来、若江郡の東弓削村の弓削神社、志紀郡の弓削村の弓削神社の二社をこの二座に当てて、両者ともに延喜式内社としています。河内国でも枚岡、恩智社に次ぐ三指に数えられた大社でした。

東弓削の弓削神社は、祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)と宇麻志麻治命(うましまじのみこと)。弓削と同じく物部氏の祖神をまつり、物部氏一族弓削氏の本拠でした。

この神社には方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)などの古い鏡を伝世しているのが注目されます。

弓削道鏡の出身地で、近くに由義宮、由義寺の跡が伝えられています。
境内には、八尾市保全樹木のエノキとイチョウがあります。

二俣

写真:二俣
二俣(ふたまた)

旧大和川が玉串川、長瀬川(久宝寺川)に分水するところです。かつては、大和川の本流が分水していましたが、今は新大和川から樋門で水を引いた用水路となった井路川をここで玉串川と長瀬川に分水しています。休憩所を設け、見学できるようになっています。

この付近は、宝永元年(1704)10月、今米村中甚兵衛(なかじんべえ)らの40余年にわたる請願が幕府を動かし、川筋がつけかえられた後、東弓削や弓削の人々によって開墾され、二俣新田と名付けられました。総反別33町8反4畝(約3,384平方メートル)でした。

玉串川沿道は、春には桜とつつじの花がとてもきれいです。

都留美嶋神社

写真:都留美嶋神社
都留美嶋神社(つるみしまじんじゃ)

河内志に「荒墳五有都塚村有祗園塚、弁財天塚等号」などとあります。都留美嶋(つるみしま)神社の地を都塚、西方田圃中の塚を弁財天塚、北方村の入口の塚を大塚、融心寺内の塚を祗園塚と呼んでいます。古く10塚あったので、なまって都塚となったともいわれます。古瓦片が多い。

神社は式内社で、もと南方にあったのを、ここに移したものと伝えられます。

都塚

都塚(みやこづか)

河内志に「荒墳五有都塚村有祗園塚、弁財天塚等号」などとあります。都留美嶋(つるみしま)神社の地を都塚、西方田圃中の塚を弁財天塚、北方村の入口の塚を大塚、融心寺内の塚を祗園塚と呼んでいます。古く10塚あったので、なまって都塚となったともいわれます。

弁財天塚

弁財天塚(べんざいてんづか)

河内志に「荒墳五有都塚村有祗園塚、弁財天塚等号」などとあります。都留美嶋(つるみしま)神社の地を都塚、西方田圃中の塚を弁財天塚、北方村の入口の塚を大塚、融心寺内の塚を祗園塚と呼んでいました。古く10塚あったので、なまって都塚となったともいわれます。

大塚

写真:大塚
大塚(おおつか)

河内志に「荒墳五有都塚村有祗園塚、弁財天塚等号」などとあります。都留美島(つるみしま)神社の地を都塚、西方田圃中の塚を弁財天塚、北方村の入口の塚を大塚、融心寺内の塚を祗園塚と呼んでいます。古く10塚あったので、なまって都塚となったともいわれます。

東弓削遺跡

東弓削遺跡(ひがしゆげいせき)

東弓削遺跡からは古墳時代初頭から近世までの遺物が各地から出土しています。

古墳時代初頭は邪馬台国があり、日本中には百余国があった時代です。小さな国でも海を渡り、中国に使者を送っていたようです。

東弓削遺跡や北側の中田遺跡からは庄内甕と呼ばれる甕が多量に出土しています。おそらくこの遺跡で生産されていた甕だと考えられます。この甕が西日本各地、吉備地方や筑後川下流の佐賀県にまで運ばれています。当時の人々は何かの目的のために西日本の各地へ河内から出かけていたことが伺えます。

また、逆にこの遺跡へは北陸や山陰、吉備地方からの多量の土器が運ばれてきています。

曙川南中学校付近から古墳時代中頃の円筒埴輪や盾形埴輪が出土しています。この付近に古墳があったのでしょうか。

同中学校付近からは布目がある奈良時代の瓦片も出土しています。南の方に奈良時代に建立された由義寺があったのでしょうか。

(出典:曙川小学校創立120周年記念誌)

※東弓削遺跡の場所は、八尾木1~6丁目、八尾木東1~3丁目、東弓削1~3丁目、都塚1~4丁目、都塚、刑部、東弓削になります。

柏村稲荷神社

写真:柏村稲荷神社
柏村稲荷神社(かしむらいなりじんじゃ)

玉串川すなわち旧大和川の河床地で、宝永1年(1704)大和川付替え後、太田の柏原仁兵衛(かしわらにへい)が開墾し柏村新田と称しました。鎮守稲荷神社がその名残りを残しています。

柏村新田

柏村新田(かしむらしんでん)

玉串川すなわち旧大和川の河床地で、宝永1年(1704)大和川付替え後、太田の柏原仁兵衛(かしわらにへい)の開墾した所で、苗字の一字をとって柏村新田と称しました。総反別20町4反9畝ありました。鎮守稲荷神社がその名残りを残しています。神社の北側に柏村新田会所跡がありその長屋門が残っていました。

六カ地蔵尊

写真:六カ地蔵尊
六カ地蔵尊(ろっかじぞうそん)

八尾から庄之内を通って信貴山へ向かう道は、刑部の北で玉串川に達します。この玉串川西堤下に当たる刑部3丁目1番地、小字茶屋之前にこの地蔵尊があります。凝灰岩の石棺の蓋を利用して作った石棺仏です。かなり風化していて、顔形も分らず、時代も不明。六カについては八尾に関係する古地名の六カ辻郷(ろっかつじごう)、小字六カ辻口(ろっかつじぐち)などとの関係が考えられます。

中田遺跡

中田遺跡(なかたいせき)

中田・刑部・八尾木北の範囲に広がる弥生時代前期~近世の集落跡遺跡です。当遺跡は昭和45年(1970)の区画整理事業の際発見された遺跡です。

なかでも、昭和53年度(1978)に市教委が行った調査では、吉備地方の特徴を持つ土器が大半を占めるという特異な出土状況が注目された『刑部土坑(おさかべどこう)』が発見されています。その後の研究により、『刑部土坑』の出土土器群は、河内地方における古墳時代初頭(3世紀前半)の標識資料となっています。

また、平成5年の楠根川の改修に伴う調査では、古墳時代前期の古墳が地中深く埋まっているのが分かりました。中田遺跡の南側に位置する八尾木北六丁目で見つかった中田古墳です。この地表面から深さ約1.7mで見つかった直径33m程度の古墳からは、家形・船形・朝顔形・円筒埴輪が多量に出土しています。

これらのうち特に注目されるのは、同遺跡刑部地区で吉備系土器のおびただしい出土もあって、この地帯が古墳時代に始まる大型集落であったことを知ることができます。

住所地は、中田1~5丁目、八尾木北1~6丁目、刑部1~4丁目となっています。

八尾市教育委員会は、平成25年3月13日に中田古墳から出土した埴輪計29点を、八尾市指定文化財に指定したと発表しました。

家形埴輪

当時の建物の姿がよく分かる家形埴輪が2個見つかっており、一つは、全体の高さが57.5cmの大型品で、壁面や屋根に塗られた赤色顔料が良好に残っています。もう一つは、全体の高さが24.5cmと、全国で出土している家形埴輪の中でも小型の例になります。

船形埴輪

外洋での航海も可能な当時の準構造船を模した埴輪で、市内で初めて出土しました。船体の長さが35.2cmで、全国で見つかっている約50例の中で2番目に小型のもので、近畿地方では最も小型になります。

円筒埴輪・朝顔形埴輪

円筒埴輪と朝顔形埴輪は、円筒部に開けられた穴がすべて逆三角形の形に統一されるなど規格性が高いものです。外面に埴輪を焼いた当時に付く黒斑が見られることや、埴輪の作り方の特徴などから、古墳時代(4世紀後半)に作られたことが分かります。

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