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曙川出張所管内の昔話など

[2018年1月26日]

ID:14241

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曙川出張所管内の昔話など

◆曙川(あけがわ)の歴史

 奈良時代の神護景雲3年(769)、称徳天皇は高僧道鏡とともに弓削に行幸され、この地に平城京に対する「西の京」としての由義宮が造られること となりました。由義宮は、大県(柏原市)、若江(東大阪市)、高安(八尾市)の三郡にまたがる大規模なものが予定されましたが、天皇の死で造営は中止とな りました。

 由義宮、それに道鏡ら弓削一族の屋敷地、氏寺の弓削寺などの遺構は、現在も発見されていません。

  若江国若江郡の最南端に位置していた、八尾木村、東弓削村、都塚村、刑部村、柏村新田、中田村の6ヶ村が、明治22年(1889)の町村制施行により、「曙川村」となりました。

 村の東西には大きな川(玉串川、久宝寺川(長瀬川))が流れ、その囲まれた平地に東から分銅川、明川、大門川の3本の川が南から北に流れています。曙川小学校の東側を流れているのが明川(現在の名称は楠根川)です。

 旧大和川跡にあたる玉串川や久宝寺川(長瀬川)の川跡は他のところよりも少し高くなっています。町名では天王寺屋、曙町にあたる地区が久宝寺川の 川跡で、天王寺屋は天王寺屋新田跡です。河川跡は微高地となっており、水の便が悪いためか畑作が行われ、八尾木や東弓削では水田耕作がなされています。

 明治22年(1889)に開通した関西本線などの交通機関の発達により、長瀬川、玉串川の河床地帯は近郊住宅地として変貌しましたが、農民も外国 綿の輸入によって、従来の綿作から野菜や花卉栽培への転作を余儀なくされるとともに、撚糸、マッチ、刷子工業等の産業へと転業しました。

 昭和23年(1948)には田園都市をめざした八尾市制が施行されていますが、曙川村は昭和30年(1955)に河内市一部と、高安村、南高安村とともに八尾市に合併編入し、現在に至っています。

 昭和41年頃から住宅化が進み、田畑は急速に宅地となっていきました

 曙川という名称は、この地を流れる川(明川)にちなんで名付けられました。現在、八尾市役所曙川出張所や八尾市立曙川小学校などの名称として残っていますが、地名(曙川東は地名としてある。)としては使われていません。

  曙川地区に「八尾木」という地名があります。八尾木と八尾とはどんな関係にあるのか、そこには、なんと八つ尾の鶯がいたという伝説もあります。諸説いろいろありますが、八尾の地名には、曙川地区が深く関わっていることは確かなようです。

 

◆八尾 - 地名の起り

 八尾という地名の起りについては、従来より、さまざまな説が唱えられています。

 一つは、古代、八尾の地には、大豪族物部氏の配下で弓矢の生産に従事していた矢作部や弓削部があったことから、「矢負い」という語(矢は背に負うものであるため)が生まれ、転訛して「やを」になり「八尾」という漢字があてられるようになったというものです。

 二つめは、「八つ尾の鶯」伝説で、三条西公条という貴族が残した『吉野詣記』に記されています。

 天文22年(1553年)の春、公条卿は吉野詣での途次、八尾木の金剛蓮華寺に立ち寄りました。その折り、里人から 「世の常の鶯は尾が12枚であるが、当地のは8枚がさねのため、美しい声で鳴くと言われている」と聞き、さっそく「契りおきてここにぞきかん鶯の八尾のつ ばさ八千とせの声」という歌を詠んだということです。

 よく似た話が『和漢三才図絵』などにもあり、もとは八尾木の伝説であったものが、八尾の地名伝説に変っていったと『八尾市史』は述べています。

 今一つは、弓削道鏡ともかかわりの深い説で、称徳天皇の西の京(由義宮)造営計画の一貫として、宝亀元年(770年)から行なわれた古大和川(長瀬川)の大築堤工事に関連するものです。

 大小さまざまな柵(=木)が打ち込まれた堤の壮観なさまを、当時の人々は、八百(やほ=たくさん)の柵(木)と呼びました。西の京は造営されずに終ったものの、大築堤工事のおかげで、この辺り一帯は、春になれば鶯のさえずる豊かな農耕地帯となりました。

 かくして八百の木は、八つ尾の鶯に転訛し、八尾の地名伝説として語り継がれていったというものです。

 この他にも、低湿地を意味する古語である「矢野」・「谷野」が「やのー」・「やのお」となり「やお」になったという説、信貴生駒連峰の八つの尾嶺に起因するという説などがあります。

 地名というものが、単なる符号ではなく、遠い祖先の営みや意識を投影する貴重な文化遺産であることを思う時、どの説も私たちに働きかけるものを持っているということができるでしょう。

 ちなみに、八尾という地名が初めて文献に登場するのは、長久2年(1041年)の矢作神社文書に見える「河内国若江郡八尾八幡掃部別宮」であるということです。

                                                                              (出典:八尾市立図書館)

 

◆明け川のはじめ

 聖徳太子が物部守屋との戦いに苦戦して、信貴山の毘沙門天に戦勝を祈願に行きました。それから後世の作り話ですが、大通寺門前の地蔵さんから戦勝の鏑矢を授かり、帰途の途中、長瀬川の堤あたりで夜が明けました。

 その時の、すがすがしい美しさに、しばし戦のことを忘れて「正にあけ川」と感嘆されたということから、明け川が曙川になったということです。

 また別の話もあります。

 この時代から少し後に壬申の乱というのがありました。

 大友皇子と大海人皇子が、天皇の位を争ったのです。

 いくつかの戦いの後、大友軍が高安城にたてこもったのを知って、大海人軍の武将、坂本臣財(オミノタカラ)が攻撃しました。これに耐え切れず、倉に火を放って逃走したのです。

 大海人軍はやすやすと高安城を占領したのですが、翌朝、西の方を見ると、海の方から韓国の兵を交えた大友軍が、大津道、丹北道を進撃して来るのが見えたのです。

 たやすい勝利に酔っていた大海人軍は、驚きあわて動揺しました。

 しかし、その時、生駒の山から登ってきた太陽が、南から北に流れるひとすじの川を照らしました。川はあたかも白く輝く刀のように伸びて、進んでくる大友軍の進路を断ち切るように見えたのです。

 美しい曙の景色を目にした臣財は「これぞ勝利の信託を表す」と、兵を励まして、一気に高安山を下り、弓削の河原で大友軍を散々に打ち破ったのです。

 それから、今の楠根川の上流あたりを曙川というようになったと伝えています。

 

◆古代の中心地・由義

 八尾の地名の起こりというと、物部一族が、矢作部や弓削部として武器作りをなりわいにして住んでいた地として「矢生(ヤウ)」とか「矢負(ヤフ)」と云われていた、これから「ヤオ」というようになったという人が多いようです。

 一方、この土地の形状から、アイヌ語の「ヤッオ」という湿地帯を表す語が使われたはずだという説があります。

 湿地帯を表す古語として「矢野(ヤノ)」「谷野(ヤノ)」があり、河内弁で「ヤノオ」となり「ヤオ」となったというのです。同様に「八尾木」は「ヤオノギ」で、川の支流を表す地名になるというのです。

 弓削道鏡の時代、別宮あたりは西の京として由義宮の建設が進んでいました。この都造りには、大和川の治水が、どうしても必要だったのです。そのため、川沿いにたくさんの丸太を打ち込んで堤を築こうとしました。見渡す限り丸太の林を見た人々は、「八百(ヤオ)の木」だと云ったのです。たくさんの数を表すのに、昔は「八百」と云いました。

 ところが、三条西公条の「吉野詣記」では、春になると、この堤ぞいに、八つの尾をもつウグイスが飛んできて、美しい声で鳴いたのだそうです。

 これが「八っ尾のウグイス」伝承を伝える記録になりました。

 江戸期の「和漢三才図絵」では「このウグイスが西郷の谷小路でさえずり、その宿る木を八尾木という」とあります。

 本当のところを確かめるすべは、今ありませんが、五百年以上も昔に、どうして八つ尾ウグイスなどという伝承があったのか、背景に興味がそそられます。

 古い文書に「弓削」や「矢作」はあっても「八尾」が見当たりません。十世紀以後の文書を見ると「矢尾」「矢生」「箭尾」「八尾」などと表記されてきています。おそらく「やお」という発音地名があって、それぞれの思う漢字を当てたのではないかと思うのは、無理でしょうか。いろいろ勝手な推測をしてみるのが、伝承を知るたのしみのひとつではないかと思っています。

 

◆狐と相撲をとった男

 大和川の分水が枝分かれして、西と北へ流れていく二俣のあたりに、太兵という力自慢の若者がおった。村の祭りなどの相撲では、いつも一等になって賞品を独り占めしていました。それに味を占めて、近くの村へ出掛けては飛び入りなどで、賞品をかすめてしまうのでした。そのうちに、勝ち負けにこだわって、行司に文句をつける若者も出てきました。村々の肝入りなども困って、村人だけが楽しむような相撲大会に決まりを変えるようになりました。

 太兵は「俺をこわがって、弱虫ばっかりで相撲をしよる。あんなものは猫のじゃれあいや」と、肩をそびえ立てて、村々を広言して歩きました。

 今日も今日とて、忙しい取り入れの畑仕事をおっぽりだして、太兵はカケ相撲の相手を探しに出掛けましたが、太兵の相手をするほど暇な若者はいませんでした。

 プリプリした太兵は、腹いせに一里塚の灯籠の笠を担いで都塚にさしかかりました。突然草むらから若者が飛び出してきて、からかうように跳びはねながら叫びました。「おうい嫌われ者の太兵。お前は力自慢で、狐どもなんか恐いことあらへんて云うてるそうやけど、俺と勝負しょうか。ようせんやろうなあ」「何ぬかす。待ってたんや相手してやる。けど、われはどこのがきや、見たことのない奴やなあ」「俺は都塚の狐だ。鉄砲は怖いが、太兵なんぞは怖くないぞ」若者は威張りかえりました。太兵は頭に血がのぼってしまったのでしょう。石を投げ付けると、がばっと若者に飛びかかりました。相手の胸倉に頭を付けてぐりぐりと胴締めを仕掛けました。「おいおい、いきなりくるとは卑怯やぞ」若者は悲鳴を上げて、手足をばたばたしました。それでも構わず、太兵はますます腕に力を込めました。

 「参った、参った。腹がちぎれてしまう。離してくれ」狐は大きな尻尾を巻いて、へこみました。「やい、どうじゃ。きつねの分際で人を化かすなんて、けしからんわい。選りにもよって、俺と力比べとは片腹痛いわい」と、威張りました。

 「あんたの云う通りや。あんたは強い。仲間の狐たちを集めて、間違っても太兵さんだけは化かしてはならんと、今すぐ回状を回すから、勘弁してくれ」と、狐は謝り約束しました。そして、太兵も知らない立派な屋敷に案内し、「まあとにかく、仲間が集るまで、御馳走でも食べて待ってください。」と、太兵を招き入れました。その部屋の立派なことと云ったら、庄屋さんの奥座敷にも負けないと思うほどです。あまりのことでキョロキョロ回りを見回していると、きれいな女の人がでてきて、優しく太兵の手を取り、「まずはお湯にでも入って汗を流してください。その間に、お食事を整えて置きましょう」と、広い湯殿に招きました。初めは驚いていた太兵もだんだんいい気になりだし、大威張りで湯に浸かり、思いっきり手足を伸ばして、鼻歌を歌いながら何回も、広い風呂の中を往復していました。

 野焼きの煙が、青白くたなびく薄もやの中で、枯れ葉、枯れ草の一杯浮いた野池を、気持ち良さそうに素っ裸で泳ぎ回っている太兵の姿を見つけた村の人々は、「今度は何をしよるつもりやろ。もう水も冷たいやろに、物好きな奴やなぁ」と、呆れ返ったように、太兵を見ながら家路についたそうな。

                                            (出典:市政情報課)

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