[2018年1月18日]
ID:32234
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当日の模様
1862(文久2)年から1876(明治9)年の間に生まれた男女6人の赤ちゃんたちは、生まれてから誕生日を迎えるまでの1年間に、「舂入(つきいれ)餅弘メ(もちひろめ)」・「髪乗(かみのせ)」・「餅つき」・「忌明社参(いみあけしゃさん)」・「食初メ(くいぞめ)」・「節句初メ(せっくはじめ)」・「誕生祝(たんじょういわい)」といった7つの生育儀礼を行っていたことが、「里勢安産諸用留(りせあんざんしょようどめ)」という古文書から分かります。
民俗学によれば、生後7日目に「七夜」というお祝いをし、このときに名付けや初毛(うぶげ)剃りをする地域が多いようですが、高安郡では生後6日目に初毛剃りをする「髪乗」という生育儀礼がみられます。また、「忌明社参」すなわち宮参りは、男児が生後29日目、女児が生後30日目に行われていたようです。
報告者:仲田 侑加(なかた ゆか)さん
江戸時代の中期以降、高安郡の村の多くは、淀藩10万石稲葉氏の領地でした。淀藩は京都の南にある淀城を本拠地としており、高安郡はその本拠地から離れて存在する「飛地領(とびちりょう)」でした。飛地領の支配には、「陣屋」を置き藩士を駐在させる場合、また、有力農民を「在地代官」にして、あとは「御用状」という書状で、飛地領の村に直接指示を出す場合の2つのパターンがあります。
高安郡の場合、現地に残る古文書から、「陣屋」でも「在地代官」でもなく、淀藩が「御用状」に似た「配符」という文書で村に指示を伝えたこと、また、高安郡の村役人が頻繁に淀城へ出向いており、それを「出淀」とよんでいたことが分かります。淀藩の高安郡支配は、この「配符」と「出淀」を軸にして行われたと考えられます。報告者:吉川 潤(よしかわ じゅん)さん
今年は、「大坂夏の陣400年」です。大坂夏の陣は、1615(元和元)年5月に終わり、7月に元和に改元されます。この元号には、応仁の乱以降の戦争を終結させ平和をはじめる、という意味が込められています。今年は戦後70年ですが、大坂夏の陣後から戊辰(ぼしん)戦争まで約250年間戦争のない時代が続きました。大坂夏の陣が終わったということは、単に豊臣の時代が終わって徳川の時代が始まったということだけではなく、戦争にピリオドを打ち、日本列島から戦争がなくなる時代がはじまったということです。それは豊臣秀吉も願ったことであり、それを徳川家康が完成させたのです。
平和な時代になると、武士として一騎当千で生きていくチャンスがなくなり、平和な時代を生きていくノウハウを身につけなければなりません。それは、村々の人々と生き、人々の暮らしと村々を復興することです。
高安郡では、豊臣旧領国の統治のため、幕府から、小沢休務(おざわきゅうむ)という武将が派遣されました。1616(元和2)年11月の「代官小沢清兵衛(せいべえ)宛て請書(うけしょ)」は、豊臣の残党を隠すべからざること等を定め、大坂夏の陣後の余燼をうかがわせます。1617(元和3)年11月の「代官小沢休務定書」には、農民が大坂などで始まった人夫賃のよい復興工事ではなく、自分たちの食糧である麦作に精を入(い)るべきこと等を定め、大坂夏の陣後の社会の秩序づくりに腐心していることがうかがえます。また、1620(元和6)年5月の狭山池の北堤が決壊した頃のものでしょうか、二つの「代官小沢休務直書(じきしょ)」は、池川堤の修理の状況を伝えています。戦争が続いて手入れがなされず、高安山麓の古墳の石が大坂城の築造に使用されたりする等が原因で、山林が荒れ、洪水が起こりました。また幕府から派遣された武将にとって、災害後の復興の手助けとなるのは、地元の旧家の人々です。小沢とともに復興につとめた村の主立ちが印判を押した「代官小沢休務宛て請書」も存在します。
今年は、「道頓堀開削400年」でもあります。道頓堀の開発を示す史料で、大阪歴史博物館が所蔵する安井家文書のうち、1615(元和元)年9月の「松平忠明(ただあきら)家臣直書」は、大阪の歴史を知るうえで重要な古文書であるため、大阪市指定文化財になっています。
八尾の古文書も400年前のものです。八尾の村々が大坂夏の陣後の復興の道のりを歩んで行くことが分かる古文書であり、重要です。市指定文化財となるだけの値打ちのあるものだと思います。 古文書の展示
近世部会長の藪田 貫(やぶた ゆたか)さん
(関西大学名誉教授・市史編纂委員・市史編集委員長)
現地調査報告会概要
八尾市魅力創造部観光・文化財課
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