二五巻 天誅組(てんちゅうぐみ)に参加した伴林光平(ともばやしみつひら)

ページID1011427  更新日 令和7年1月30日

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写真:伴林光平碑

天誅組をご存じですか?天誅組は尊皇攘夷(そんのうじょうい)を掲げ、主将の公卿(くぎょう)中山忠光、総裁の吉村寅太郎(とらたろう)を中心に文久3年(1863年)8月13日に、大和五条の代官所を襲い、五条御政府を開きました。

これに最年長の50歳で記録方として参加したのが伴林光平です。


光平は、文化9年(1813年)、志紀郡林村(藤井寺市)の尊光寺(そんこうじ)で生まれ、西本願寺などで仏教の修行に励み、その後、和歌や国学を学びました。

そして、33歳から16年間、若江郡(わかえぐん)成法寺村(現在の八尾市南本町)にあった教恩寺(きょうおんじ)で住職となり、顕証寺や大信寺などで歌道指南役を務め、奈良の興福院(こんぷいん)や中宮寺(ちゅうぐうじ)の歌会に参加するなどして、和歌や国学を教えていました。

また、大和や河内の古墳の調査を行い、『大和國陵墓検考(やまとのくにりょうぼけんこう)』『野山のなげき』など数多くの書物を執筆していますが、古墳の図面と共に地名や村人の言い伝えを記録しており、当時の古墳の状況が分かる貴重な資料となっています。

このように、学問や和歌にいそしんでいた八尾での生活は、光平にとって最も穏やかな時代だったといえます。

しかし、文久元年(1861年)、48歳になった光平は「本是神州清潔民(もとこれしんしゅうせいけつのたみ)」に始まる仏教と決別する七言絶句を残して還俗(げんぞく)し、尊皇攘夷運動に身を投じます。

天誅組の戦いは、政治の流れに翻弄(ほんろう)され、およそ一ヶ月で終わりますが、その記録は光平によって『南山踏雲録(なんざんとううんろく)』として残されました。

今年は、光平の生誕200年、そして天誅組の決起から150年にあたります。

南本町にある教恩寺跡と奈良への通い道であった十三(じゅうさん)街道の玉祖(たまのおや)神社の傍らには、光平追悼の石碑が建てられています。

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