戦争体験談「大阪大空襲」平岡 庸子

ページID1021744  更新日 令和8年1月29日

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大阪大空襲

平岡 庸子

 昭和18年頃、私と兄は小学生で奈良県大宇陀(当時は大和と呼んでいました)に疎開していました。大阪の大空襲で早くに家を焼かれてしまいました。両親も奈良に一緒にいて、父だけが様子を見に大阪へ帰りました。私の実家は、大阪東成区の中道にあり、近くに大きな歯医者宅があったのを覚えています。父が帰ってきて話してくれたことは、まだ熱かったということで、父は紳士服の仕立て屋をしていましたので、アイロンの鉄の部分だけ持って帰ってきました。あの大きな服を縫うための作業台(当時はバイタと呼んでいました)をもう見ることができないのかと思うと、悲しく思いました。

 私は、入学式は大阪で迎えましたが、すぐに奈良県の大和の大学院小学校に転校しました。奈良県での暮らしは食糧難でいつもとうもろこし(当時はなんばと呼んでいました)ばかり食べていました。戦後も長い間、見るのも嫌でした。

 大阪に帰ることができないので、叔父さんの近所に家を借りて住みました。父は仕事がないので近所の服屋さんに勤めに行きました。母は私が小学校5年生のとき、食糧難が原因なのか、38歳の若さで亡くなりました。私自身は、結婚を機に昭和39年、八尾市へ引っ越し、そこから60年以上、八尾で生活しています。

 疎開していたことで戦禍は免れましたが、家は燃やされ、何もかも失ってしまいましたし、戦争さえなかったら、家族揃って頑張って暮らしていけたのにと思います。

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