戦争体験談「叔父の生きた証」山下 佳子
戦争の記憶 叔父の生きた証
山下 佳子
私の叔父は、久永 利国(ひさなが としくに)と言います。これは、私が子供の頃から、ずっと母から聞かされ続けてきた話であります。
昭和20年7月27日、もうすぐ終戦になろうとしていた、良く晴れ渡った夏の真昼、B29で初めて使用されたばかりの1トン爆弾が、鹿児島駅に集まっていたたくさんの人たちを直撃しました。この爆撃で、420名ものたくさんの人たちが亡くなったとのこと。その中に、鹿児島県立工業高校を卒業したばかりの若い叔父がいて、叔父は、1片の骨も残らず、非業の死を遂げました。
叔父は、旧国鉄で働いていたらしく、長男で、頭も良く、みんなから頼りにされていたとのことでした。いつも白いマフラーをして、「どうや、姉ちゃん」と母に言っていたそうです。お通夜も葬式もなしで、お墓にも、ただ名前の銘記のみであり、一体何の為に生まれてきたのかと、母は言い続けていました。「いつか人間は必ず死ぬ。だから一度しかない人生をムダにしてはいけない。」とも言っていました。
私の両親も、伯母も、伯父も、青春を、人生を、戦争に奪われ、伯母は生涯独身で働きづくめの人生を生きてきました。また、父が亡くなった後、アルバムの中から一枚の写真が出てきました。それは、両手両足を失った、父の戦友の写真でした。人間だけでなく、動物園にいるたくさんの動物たちも殺処分されたとのこと。何の罪もないのに。無情で、残酷です。
母は、日本人は絶対に昭和という時代を忘れてはいけない、と言っていました。夏が嫌いで、「もう少し早く戦争が終わっていたら…」とも言っていました。叔父が生きていたらと、母も伯母も、亡くなるまでずっと言い続けていました。
鹿児島には、「知覧特攻平和会館」があります。新聞に掲載された記事の中で、生きたくても生きられなかったたくさんの若い命のことが書いてあり、叔父にしても、特攻隊の人たちにしても、みんなまだこれからやりたいことがたくさんあって、さぞ無念だったと思われます。
2025年は戦後80年、私が死んだら、叔父のことを知る人はもう誰もいなくなってしまいます。ほとんど写真もなく、戸籍に載っているのみですが、これから100年後もずっと叔父の生きた証が残っていってほしい。戦争で亡くなった何百万人の人達の死が、絶対にムダにならないように。大切なこれからの日本を背負う子どもたちや若い人たちに、戦争の記憶を受け継いでいただけたらと思っています。
そして最後に、こういうことが絶対に二度と起こらない日本であってもらいたい。日本だけではなく、世界中が平和であってもらいたい。こういう形で残せたら、叔父も喜んでくれていると思うし、私としてもうれしく、切に平和を願っています。2025年は昭和100年でもあり、戦争のことは絶対に避けては通れない出来事だと思います。
ご意見をお聞かせください
このページに関するお問い合わせ
人権ふれあい部 人権政策課
〒581-0003大阪府八尾市本町1-1-1
電話番号:072-924-3830 ファクス番号:072-924-0175
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。


















