戦争体験談「召集令状」髙萩 太一
召集令状
髙萩 太一
1945(昭和20)年7月28日の夕方薄暗くなった頃、師範学校から外泊の休暇をもらって帰っていたら、役場(現南高安出張所)の顔馴染みの用務員さんが「髙萩さん来ましたで」と召集令状(赤紙)を持参された。8月14日、高槻の工兵隊へ入隊することになっていた。軍隊への入隊は、一般的には満20歳の徴兵検査に合格した者が入隊することになっていたが、昭和19年からは満19歳に引き下げられていた。当時私は満18歳で、翌21年2月に満19歳を迎え、その後徴兵検査を受けることになっていたが、徐々に戦局が熾烈になっていたこともあり、いつ徴兵検査や臨時召集令状が来るかもしれないと覚悟はしていた。が、さすがに赤紙を手にとった瞬間はドキッとした。
8月14日、村の大勢の人たちに恩智駅まで見送られ、父と叔父に付き添われて高槻の中学校の仮兵舎に入隊した。
早速、徴兵検査が実施され、私は第一乙種(身体・精神ともに兵役に適しているもの)として、二等兵となった。検査を受けている間、西の方からドカンドカンと大きな音が聞こえてきて、爆弾投下の音ではないかと気にかかった。後日、その音は森の宮の陸軍造兵廠(軍事工場)へのB29からの集中爆弾投下で、四万坪の造兵廠は壊滅的な打撃を被ったと聞いた。このとき、近くの城東線(現環状線)の京橋駅のホームにも1トン爆弾が命中し、まことにお気の毒ながら現在もホームの下敷きとなって眠っておられる遺霊がおられるとかで、2025年も8月14日に駅近くで慰霊祭が施行された。
私は分隊長と戦友関係になった。私たち新兵はすべて古参兵と戦友関係を結ぶことになっていた。私は分隊長に呼ばれ、幹部候補生志願の書類持参の有無を問われた。「持参しませんでした」と答えると「なぜだ」と聞かれ、「幹部候補生になるための訓練で日々を送るより、国家非常の時に兵隊として一日も早く敵撃滅のお役に立ちたいと思い、志願書を持参しませんでした」と答えた。それは、分隊長の心情を大変良くしたようだった。
兵隊になって支給された軍服のうち、下のズボンは膝下までしかなかったが、ゲートルを巻けば下にズボンを履いているのと同じでわからない、と言われた。靴は豚革で新品だった。肝心の鉄砲や銃剣はなく、試合用の木銃一本のみ。飯盒も柳行李(やなぎごうり)の弁当箱で、荒い糸で編んだ袋を肩から斜めにたすき掛けして背負う。もちろん、背のう(兵士が背中に背負う鞄)など正規の持ち物はなかった。何はさておき、兵隊で鉄砲や銃剣のないのはあまりにも哀れであった。
翌8月15日正午。運動場の朝礼台にラジオが据えられ、天皇陛下のお言葉を聞くことになった。雑音がひどく、整列している私たちには何がなんだかわからず、玉音が聞き取れなかった。その後、朝礼台の一番近くで聞いておられたにもかかわらず、中隊長が「陛下は一億総決起を申された。全員粉骨砕身頑張れ」とのようなことを訓示された。
その日の午後か翌日だったか、分隊長は私に「我々は静岡へ転進し、海岸に蛸壺壕を掘って一人ひとり入り、敵戦車に爆薬を抱えて飛び込むのが任務だ。俺とお前は22日に先発するから、家へ電話して親に来てもらって会って来い」と言ってくださった。私は、父が兵役で負傷したことで片方の足が義足になっており、空襲警報がいつ発令されるかわからない時に歩行も大変だろうと思う気持ちもあり、「出征するときに別れてきたのですから今更会うこともありません」と、有難いお言葉を辞退した。
このとき、分隊長には、「このことはまだ誰にも言うな」と釘を刺された。なぜなら、敵戦車との一騎討ち、すなわち特攻隊になるということで、同僚たちが動揺してはいけないとの心遣いだったように思う。今思うと、特攻なので鉄砲や銃剣も不用だったのかもしれない。
そうこうしているうちに、戦争が終わったとの声がどこからともなく私たちに聞こえてきた。デマが飛んで「大阪府庁の近くまで米軍が進撃してきた」「和歌山へ米軍が上陸してきた」との声がまことしやかに聞こえてきた。軍隊では、校庭に大きな穴を掘り、軍人手帳や日の丸の旗、千人針(出征兵士の無事を祈るために作られたお守り)などの兵隊とわかる持ち物、一切を穴に投げ入れ、焼却させられた。
もうすでに時効であり、その方もすでに鬼籍に入っておられるので話せるのだが、同郷で古参の上等兵の方が私を呼んでこう言った。「高萩、ここにいると米兵に殺される。トラックを友達と用意したので、今夜12時頃、エンジンの音がしたら運動場へ走ってきてトラックに乗れ。一緒に逃げる」と。私は迷った。心配してくださって有難いことだ。でももし見つかれば軍法会議にかけられ逃亡罪で銃殺。かといって米兵に殺されるのも恐ろしい。眠ることもできず、12時になってもトラックのエンジンの音が聞こえてこない。とうとう夜が明けた。なぜかホッとしたのを覚えている。
後日、戦争が終わったことが確実になり、私たち新兵は8月22日に除隊、解散となった。米一升が支給され、二人で木銃二本に米二人分と、出征時着用してきた衣類などを入れた奉公袋を担いで、仮兵舎を後にした。その後、どういう交通機関で家へたどり着いたか、まったく記憶にない。
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