戦争体験談「16歳の戦死者」黒川 敦之

ページID1022008  更新日 令和8年2月13日

印刷大きな文字で印刷

16歳の戦死者

黒川 敦之

 令和7年は戦後80年、叔父・河端定一(1929.2.1~1945.3.25)が戦死してからも80年が経ちました。私は現在50代ですが、叔父が戦死と話すと「叔父さん?世代が合わないのでは?」と思われそうですが、私の母の8つ上の実兄で昭和20年3月25日に、僅か16歳と1か月という若さで、鹿児島開聞岳沖にて戦死しました。恐らく八尾市では最年少の戦死者では無いでしょうか。

 戦局が悪化した昭和18年、叔父がまだ八尾中部国民学校高等科を出る14歳だった頃、学校を通じて通信少年兵の募集がありました。あまり知られておりませんが、実際は各学校にノルマがあったようで、貧しい家庭の5人兄弟姉妹の次男坊、しかも卒業式に総代(代表者)になる程優秀だった叔父は格好の人材と見られていました。既に長兄は出征中で、残った4人兄弟姉妹が病気がちだった祖父と祖母だけで食べていくのは大変だと、ほぼ口減らし目的で応募されたそうです。

 ある時、叔父の友人が祖母の所に来て「おばちゃん、定ちゃんに服こうたって、卒業式で総代やねん」と、いつもボロボロだった格好を見かねて祖母に進言してくれたそうです。叔父は、家には負担かけまいと黙っていたそうです。

 出征時の写真が残されていますが、今では考えられない14歳での出征。母の話では、祖父は少し自慢げだった一方、祖母は全く無表情だったそうで、個人の感情や不満を表に出すことが難しかった時代を物語っています。

 そして、ちょうどその年に開設された山口県の海軍防府通信学校にて訓練を受けた叔父は翌年には通信兵となりました。昭和19年長兄が中国戦線へ向かうことになり、長兄との最後の面談があったそうで、定一は色々な情報に触れていたことから「兄貴、この戦争は負けるで」と15歳の少年ですらつぶやいていたそうです。

 大阪でも空襲が始まっていた昭和20年1月、叔父は最後の休暇で自宅に戻って来たそうです。帰って来ても、何ももてなす食料も無く、さつまいも程度。それでも、当時幼かった母は兄の帰宅を喜んだ記憶が鮮明に残っていて、叔父の横にくっつきに行くと、母が持っていた人形に「撃ちてし止まむ」と軍国少年らしい文言を書いたそうです。

 そんな勇ましい叔父でしたが、数日の滞在中、祖母と叔父が隠れて話しているのを、幼い母はこっそり見てしまったそうです。「おかあちゃん、家に帰りたい、、、」と言って泣いていたと。無口で我慢強い叔父が、母親の前で15歳の素顔を見せた最後の瞬間でした。

 祖母は息子の言葉を聞いても、何も出来ない悲しさ。お金も、訴えられる場所もなく、息子の命を救えないその哀れさ。幼い母も察してか、静かにその場を去ったとか。

 そして、再び叔父が家に帰る事はありませんでした。

 昭和20年3月25日、富士丸と言う輸送船にて沖縄救援に向けて佐世保港より出航。既に東京・大阪も大空襲で焼け野原。全く制空・制海権の無い中の無謀な出航で、鹿児島県開聞岳沖において米軍の攻撃を受け撃沈。戦後、同じ船で助かり復員された方に聞いた話では、普段から船の周囲を泳ぐ訓練を受けており、助かった人はすぐに海へ飛び込んだとか。「河端、早く出て来い、逃げろ」と通信室に叫んでも、叔父は出て来なかったそうです。空爆の衝撃で既に動けなかったのか、それか最後まで任務を離れなかったのか定かではありませんが、16歳と1カ月の短い人生を終えました。

 よく戦争ドラマで描かれますが、正に戦死を知らせに来た役所の方には「おめでとうございます」と言われたそうです。祖母も、その場では泣くことすら許されなかった時代で、平静を装っていたそうです。でも、入隊を勧めた教師は葬儀に来ただけで、後は一度も来なかったそうです。

 幸い、長兄は昭和21年にシベリア抑留より帰国。病弱で栄養失調状態だった祖父は、叔父(長兄)が復員した翌日に息を引きとったとか。

 祖母は平成まで長生きしましたが、戦後旅行に出かけたのは、昭和30年代に東京への靖国神社への参拝に1泊で行った一度切り。一切、温泉やら観光やらと遊びに出かける事もなく、叔父の軍人遺族年金もほぼ手つかずでした。

 平成になって、厚労省より取寄せた書類では、叔父の最期は「特攻戦隊」と明記されていました。

 令和になって、母と沖縄摩文仁の丘を訪れた際、地元の小学校の先生らと話す機会があり、そんな16歳の少年が沖縄救援に向かう為に戦死していた、決して沖縄を「捨て石」にした訳では無いと話すと、沖縄の人は「全く知らない話だ」と驚かれていました。

 その母もこの夏88歳で亡くなりました。晩年もずっと叔父のことを思い「兄ちゃんは何の為に生まれて来たんやろう」と、あどけない子供の顔で残っている写真を見て話していました。

 今、叔父は光南公園横の墓地に眠っていますが、当然子供や孫がいる訳でもなく、せめて甥である自分が生きている間だけでも、このお墓を守ってあげたいと思います。

 ぜひ、八尾市でこのような悲劇的な少年がいたことを、覚えておいてください。

河端定一さん
黒川さんの叔父・河端定一さん。
14歳で出征し、16歳という若さで戦死しました。
家族写真
河端さん(前列中央)出征時の写真。

ご意見をお聞かせください

このページは役に立ちましたか?
このページは見つけやすかったですか

このページに関するお問い合わせ

人権ふれあい部 人権政策課
〒581-0003大阪府八尾市本町1-1-1
電話番号:072-924-3830 ファクス番号:072-924-0175
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。