戦争体験談「被爆体験」古田 鈴子

ページID1021790  更新日 令和8年2月13日

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被爆体験

古田 鈴子

 1941年(昭和16年)12月8日未明、日本の戦闘機がアメリカ海軍の基地がある真珠湾を攻撃し、太平洋戦争がはじまりました。

 大国で資源の豊富なアメリカと、小さな国の日本との戦いです。日本はお寺の鐘や湯たんぽ等、金物までもすべて国にさし出していました。

 翌年、昭和17年当時は、日本軍がアメリカに勝って戦っているという話が中心でしたが、やがて日本軍の戦況は悪くなり、1945年(昭和20年)、アメリカ軍の日本領土への空襲は激しさを増してきました。アメリカ軍が50機編成で、日本領土を爆撃する日が続き、昭和20年3月10日には東京が大空爆され約10万人の人が死亡したといわれています。

 当時、私達家族は広島県の呉市に住んでいました。しかし、呉市には軍港があった為、次々に攻撃を受けました。焼き出された私達は、広島の母の実家の田舎でお世話になっていました。私は、いまの中学生の年令の時から学徒動員で国鉄に勤め、同じ職場の先輩の家でお世話になっていました。しかし、8月1日から広島の牛田町にある国鉄教習所に行く様に言われ、そこで苦しい寄宿生活が始まりました。空腹と不衛生な生活の中で、8月6日を迎えました。その前の晩、誰言う事なく「明日は大空襲がある」という話がされていました。当日の朝になるといつもの様に5時に起床し駆け足をしました。朝食が済むと外出許可が出ました。私は特に行くところがなかったので、寄宿舎の2階で日記を書いていました。すると、ピカーッと鋭い光線と共にエレベーターに乗った様な感じがして、気を失いました。しばらくして気が付いたときは、大きな建物の下敷きになっていました。

 あっちでもこっちでも「お母さーん」「先生助けて!」と悲鳴が聞こえてきました。私もとうとう死ぬんだなと感じ、とても落ち着いた静かな気持ちでした。

 その時、「じっとしているんですよ、動いたら壁が隙間に入り込んで動けなくなるから」と先生の声が聞こえてきました。私の横で下敷きになっていた友達が一生懸命もがいて立ち上がり、「みず―みず―」と力のない声で叫んでエビの様に反り返り、立ったまま死んでしまわれました。その人の血がボトボトと私の胸に落ち、薄いブラウスを通して肌にしみました。でも、その人が目印になり私は掘り出してもらい助かりました。しかし、打撲が酷く歩く事が出来ず、周囲の人に支えられてガラスの破片がいっぱい散らかった中を裸足の中、夢中で逃げました。まだ頭の上で、アメリカの艦載機が人の姿を見ると、ヒューンと音をたてて低く飛んできては、ダダーと機銃掃射をしてきます。私は背中が痛くて、息が切れそうで立ち止まると「あなたが目標になって皆殺しされてしまうから」と言われ、原爆の3000度の熱で焼かれ、まだくすぶっている草の中へ頭を押さえてしゃがみ込みました。息が切れそうで頭を上げると、また押さえられながら一生懸命逃げました。のどが渇いてどうしようもありませんでした。川に毒を流されたから、水は飲まない様にと言う事を聞きましたので、一生懸命我慢をしましたが、それも我慢できず、トマトの成り木を見つけて取って食べました。少し落ち着いてきたので周囲を見ると、あっちでもこっちでもうめき声が聞こえます。よく見ると、前か後か見分けもつかぬほど焼けただれた人が、しゃがみこんで「うーうー」と弱々しい声で呻いておられるのです。そして、その人が「私は西部の○○部隊の者で、これからその部隊に帰らなければいけないのですが、西練兵場はどちらに行ったらよいでしょうか」と途切れ途切れの苦しそうな声で聞かれるのです。もう目は見えないし、皮膚は焼きただれ、肉が見えていました。兵隊さんでしたが、苦しいとも痛いとも言わず、それからしばらくしてそのままの格好で死んでしまわれました。またすぐ側で、何か揺れ動いているので行ってみると、赤ちゃんが死んで木の枝に引っかかって揺れ動いていました。どこを見ても死体がごろごろしていました。

 田舎の方から、親や兄弟や我が子がもしかして生きているのではないかと、万が一の望みをもって探しに出て来られていた方がいました。大きな柱の下敷きになり、紫色に晴れ上がった顔を見て、自分の子どもではないと言っておられたお母さんが、手首のあざを見つけ自分の子どもと確認して「一言だけでもいいから何か言うて!」と死体に取り縋って揺さぶりながら泣き崩れておられました。しばらくして、生きていたら食べさせてやりたいと持って来られた、はったい粉や大豆の煎った物を私たちに食べてくださいと言って、置いて帰っていかれました。

 その夜は、焼け跡の青天井で土の上で寝ました。死骸を山の様に積み上げて、あっちでもこっちでも焼き、人間の焼けた匂いが一面に立ち込めていました。枕元では、沢山の友達の骨が手の形のまま、頭の形のままに真っ赤な炎の中から見えていました。「あぁーあぁーあの人も骨になってしまったのか」と次から次へと友の顔が浮かんできては消えました。

 朝になると、防空壕の中で下半身不随になった人達や歩くことができない人達が沢山寝かされたままになっていますので、訪ねていきました。防空壕の入り口に立つと、蠅がブンブンと飛んでくるので、両手で払い除けながら中へ入っていきました。「一緒に連れて逃げてね」と言う友達に元気付けましたが、その友達には蛆虫がいっぱいわいていて、耳を食いちぎられている様な状態でした。その友達も、大勢の友達とともに14、15歳の若さで死んでいきました。

 2、3日前まで泳ぎに行っていた太田川も、男性の死体、女性の死体、子どもの死体で川面が見えない位いっぱいになっていました。原子爆弾の3000度の熱で、のどが焼きつく様で息切れがし、我れも我れもと川に水を求めて、その川で先を争って死んでいきました。

 市電の吊革に掴まったまま、電車ごと真っ黒に焦げ、丁度マネキンを黒く焦がしたように死んでいった人達。夫婦で子供だけは死なせたくない守ってやろうと、子どもを真ん中にして抱き合っている死体。薦(こも)を被せてあるので、何だろうとみて見てみると手首のない手がにゅうと突き出ていて、薦の下から「うーうー」とうめき声がしてまだ生きている人。目玉が頬にぶら下がっている母親を、子どもが手を引いて歩いている様子。まるで地獄を見ている様な光景でした。

 治療といえば、ほとんどの人が何の治療もしてもらえず赤チンを塗るか、油薬を塗る位の事しかしてもらえず、日を追ってバタバタと死んでいきました。

 本当にこの世の生き地獄でした。15歳になったばかりの私には、この出来事は心に焼きつき、一生忘れることが出来ません。

 交通機関も線路もやられ、汽車が不通になり大変でしたが、被爆地の広島を後にして、線路のない所を歩いて、田舎にいる姉の嫁ぎ先までやっとの思いでたどり着き、そこで母と会う事が出来ました。母は、広島市内にいた人は一人も助からなかったと聞き、大勢の人が死んだのだから、私の骨など見つからないものと諦め、誰の骨でもいいからもらって帰り、お葬式をしようと思って帰る途中、姉の家に立ち寄ったところでした。そこで私に会い、びっくりしてとても喜んでくれました。それから、母の実家でお世話になりました。

 母の実家のある村は、無医村なので治療する事も出来ず、3ケ月ほど寝込んでいましたが、田舎の事とて、農繁期で忙しくなると、とても寝てはおられず、重い身体を引きずり這いずりまわって、広い農家の縁側の拭き掃除をしました。

 広島から帰ってからは、背中から肩にかけて紫色に腫れ上がり、体中に吹き出物ができてその吹き出物から汁が出て、治療するまでに長い期間がかかりました。

 1945年(昭和20年)に被爆して、19年目の1964年(昭和39年)に被爆手帳を初めて作ってもらいました。そして、初めて定期検診を受けてみると、赤白球が通常より100万も少なく、白血球は基準値が4千個から9千個に対し、3千個しかなく、血沈は40ミリメートルと何もかもが狂っていました。

 それからは、内科、整形外科、呼吸器内科、眼科と日赤病院への通院の日々が始まりました。整形外科へは、一日置きに通い、脊髄の両方に注射をしてもらいました。しかしその治療がとても痛く、しばらく横になっていないと立ち上がれないくらいでした。肩の下から腰まである鉄骨のコルセットを作ってもらいましたが、身体を曲げる事が出来ず生活に不便でしたので、はずしてしまいました。

 毎日毎日がしんどくて、背中に重い鉛を背負っているみたいで、立っているのが苦しくて横になって過ごす日々が何年も続きました。また、貧血の為目まいがして、その場で倒れ2時間位してやっと気付き、煉炭火鉢の上のやかんの水が空になっていて、やかんを駄目にしたこともありました。

 現在も通院していますが、これからも病痛の日が命ある限り続くと思います。私だけが苦しいのではなく、多数の被爆者が同じ苦しみを受けている事を、皆様に知って頂く為、それ以上に戦争の恐ろしさ、平和の大切さを知ってい頂く為、私の最後の日まで人生を頑張って生きていくつもりです。

 今、この瞬間にも世界では戦争が行われています。毎日の様に報道されているロシアのウクライナ侵攻、大勢の人達が犠牲になり殺されています。戦争では悲劇しか生まれません。人間が人間を殺してはいけないのです。人の命は、地球よりも重たいと言われています。一人ひとりがしっかりと認識し、戦争のない平和への祈りを込めて、私の被爆体験のお話を終わらせていただきます。ご高覧ありがとうございました。

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