戦争体験談「兵隊に行った父のこと」城平 紀美代
兵隊に行った父のこと
城平 紀美代
私が7歳の頃、父は兵隊に行った。私は赤長ぐつをはいて、バンザイと言って手を振って父を見送ったことを憶えている。戦争がひどくなったとき、満州から沖縄へ帰ってきた父は、皆と一緒に玉砕して死んだと聞いた。
私と母と弟は3人で、大阪市浪速区の久保吉町というところに住んでいた。5歳下の弟は体が弱く、家の玄関にはいつも酸素ボンベが置いてあった。私が9歳になった頃、毎日のように空襲警報が鳴って防空壕に逃げたのを憶えている。防空壕から外を覗くと、焼夷弾が花のようにパラパラと落ちてくるのがものすごくキレイだった。
「空襲警報発令」拡声器の声で避難ばかり…。
私は、(月日は定かでないが)学校の皆と滋賀県に集団疎開した。ある日、母がデング熱という病気になったと聞いて、大阪の家に帰された。帰ってきた私の頭を見るやいなや、母は慌てて私の頭を洗いだした。くしの歯に、シラミが山のようにたかっていたのだ。子供心にかゆいのも辛抱していたのだと思う。今思い出してもかわいそうだ。母は、一生懸命私の頭を洗ってくれた。
戦争は日増しにひどくなり、毎日空襲警報が鳴った。灯火管制により真っ暗な家から、家族3人でガード下に逃げた。私はもう9歳半ばだったけど、昭和20年の3月、大阪大空襲があった。夜が明けると、来ていた服の背中のところがぼろぼろに焦げてぶら下がっていた。母は、焼けていく自分の家を呆然と眺めていたに違いない。このときは目が開けられなくて、薬もなく、近所の方にもらったお乳で目を洗った。
私たち3人は、近所の人と一緒に、大八車に荷物を積んで滋賀県に疎開することになった。その途中、駅の近くで、トタンの上に大勢の死んだ人が積まれているのを見た。私は、あのときのことを今でも夢に見ることがある。90歳になって、80年前のことをいまだに思い出すなんて、戦争は本当に地獄だと思う。
疎開した先でも食べるものがなく、たんぽぽの葉や、なんばきび(とうもろこし)を食べて過ごした。その後、大阪に帰っても相変わらず貧しい暮らしだった。当時は、配給の手帳に書かれた決められた量のお米しか買うことができず、何もかも貧乏だった。母は、自分の着物を農家の人に買ってもらって、玉子や野菜をもらっていた。それでも、ひもじい思いをしながらも皆一生懸命生きた。
私は現在、娘と2人、何不自由ない日々を送っている。戦争があったことも忘れたかのように。今も、世界のどこかで戦争に巻き込まれて、つらい思いをしている人がいる。私たちのように平和な毎日が過ごせるよう、祈りたい。世界平和のために、皆で努力しましょう。
ご意見をお聞かせください
このページに関するお問い合わせ
人権ふれあい部 人権政策課
〒581-0003大阪府八尾市本町1-1-1
電話番号:072-924-3830 ファクス番号:072-924-0175
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。


















