戦争体験談「英霊の帰還」髙萩 太一

ページID1022190  更新日 令和8年2月13日

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英霊の帰還

髙萩 太一

 1937(昭和11)年日中戦争が勃発。私が小学校5年生の時だった。村の若い人たちに召集令状がきて応召されることになり、私たち小学校の上級生らは恩智駅のホームの東北側の土手のところに整列して、大きな声で軍歌を歌って出征兵士を送り出した。その頃、大軌電車(現在の近鉄大阪線)はモスグリーン色の一両仕立てだった。出征兵士は、車両の後部連結の扉を開け、見送りの人たちに敬礼した。電車は特にゆっくりと発車した。私たちは、「天に代わりて不義を打つ忠勇無双の我が兵は」と大きな声を張り上げ一生懸命歌い、最後に「万歳、万歳」と叫んで出征兵士を送り出した。

 その頃から、戦地の兵隊さんを慰めるため、手紙や日用品を詰めた慰問袋を作り、学校へ持ち寄るようになった。慰問袋は、何らかの方法で戦地へ送り届けられていた。

 翌年のある日のこと、戦死された英霊が帰還された。私たち6年生は、当時の赤いレンガの長く続いた塀の萩原綿布工場(現在の恩智中町)の前に整列して英霊を迎えた。駅の方から哀しげなラッパの音が聞こえてきた。青年団員が三八銃を逆手に持ち、銃口を下に向け、銃のベルトを右肩に通して行進した。その後を、英霊が入れられた白い布箱を首から抱えた家族の方が続き、さらに親族、村の関係者が列をなして進んだ。英霊が目の前を通過されるとき、私たちは頭を深く下げ、最敬礼をした。映画「二十四の瞳」にも英霊が帰ってくるシーンがあるが、あの光景よりずっと厳粛で立派に感じた。数日後、よく知っている家だったこともあり、子ども心にもの珍しく英霊の家の前に行った。門の前には青年団員が二人、警備のためか銃を持って直立不動の姿勢で立っており、その後ろには白い提灯がぶら下がっていた。私はそのまま礼をして家へ帰ったが、よほど印象が強かったのか、このときの光景は今でも目に浮かぶ。

 その後、私は旧制中学へ進学し、日本は太平洋戦争に突入した。この頃から、中学校の教練の教官も応召されるようになった。卒業後に知ったことだが、K先生とY先生という、当時私を担任してくださったお二人も応召され、その後戦死されたと聞いた。K先生には歴史を教わったが、テスト勉強の方法をご指導いただいたことを今でも憶えている。輸送船に乗船中、敵潜水艦の魚雷攻撃により命を落とされたそうだ。さぞご無念であったろう。Y先生は、当時新卒の若い先生で、公民を教わった。私たちは「兄ちゃん」と親しみをこめて呼んでいた。戦死されたことは終戦からかなり時間が経ってから聞いた。お二人とも、なぜか今でも時折、在りし日のお姿が浮かんでくることがある。心からご冥福を祈る。

 私の地元でも多くの方々が戦死され、神宮寺墓地の軍人墓にはおよそ百八十柱あまりの石碑が建立されている。また、恩智神社境内の片隅に祖霊社があり、その前庭に日中戦争や太平洋戦争で戦死された恩智、神宮寺の百五十三柱の名が刻まれた「戦没者慰霊碑」が建立されている。毎年10月22日には遺族や恩智神宮寺連合会長等が参列して、慰霊祭が執行されている。2025年も例年どおり滞りなく斎行された。神として祀られた戦死者には、生前の名前に「命(みこと)」を付けて祝詞が奏上される。軍人墓の碑の中や祝詞奏上の中に、生前よく存じていた方のお名前を見聞しては、改めて戦争の悲惨さ、むなしさとともに、平和のありがたさ、尊さをかみしめるのであった。

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