長崎被爆体験講話
7月2日(火曜)長崎被爆体験講話で稲塚秀孝さんよりお話を聞きました。長崎から被爆された方に学校に来ていただき、お話を聞く取り組みは毎年八尾市内の小中学校の何校かで実施されてきました。今年三年生が修学旅行でお話をしていただいた丸太和夫さんも数年前に亀井中学校に来てくださったことがあります。しかし直接被爆された方々の多くは90歳を超え、活動はそうした方々から話を受け継がれた人たちが担うようになってきています。
今回お話をしてくださった稲塚さんはかつてテレビなど映像の世界におられたということで、取材したことをもとに映画を作られました。取材の対象であった広島と長崎の両地で被爆した二重被爆者山口(やまぐち)彊(つとむ)さんと出会い、亡くなられるまで5年間交流を続けられました。その綿密で濃厚な取材をもとに伝えてくださったお話に、生徒たちも深い感銘を受けたようでした。お話の後3人、4人と手を挙げて質問したり感想を伝えたりする生徒がいるなかで、最後に『この話をだれかに伝えたい、自分たちが後世に伝えていきたい』と述べる生徒がいて、稲塚さんはそのことにとても感動されていました。山口彊さんから原爆の悲惨さを伝えるというバトンを受けたった稲塚さん自身も、次の世代へバトンをつなぐ、その重い役目を果たせる活動だと思えたのではないでしょうか。物怖じすることなく手を挙げて質問し、思ったことを発言する三年生を立派だなと思いました。3年間の平和学習の集大成であると感じました。このような悲惨な出来事が二度と起こらない平和な世界を望みます。
二重被爆者
二重被爆者というのは広島で被爆したのち、長崎でさらに被爆をされた方のことです。今回の講話で稲塚さんがご紹介くださった山口(やまぐち)彊(つとむ)さんは昭和20年8月6日、広島で爆心地から約3キロの地点で被爆され左鼓膜が破れ、左上半身に大やけどを負われました。三菱長崎造船所の技師として広島出張中の被爆でした。長崎にいる妻や娘に会いたいという強い思いで救援列車に乗り必死で長崎まで帰ったそうです。7日の午後広島を出発し、長崎についたのは8日の朝でした。そして、8月9日出勤した長崎三菱造船の事務所で会社の同僚に広島での出来事を伝えているとき、再度長崎に投下された原爆によって被爆されました。この時も爆心地からおよそ3キロのところにおられたそうです。
164人の方が広島と長崎の両地で被爆したとされていますが、実際にはもっといたはずだと言われています。稲塚さんが両市で被爆された方がいると耳にし、探し出して取材を始めたとき山口さんは89歳でした。取材をもとに2006年に『二重被爆』という映画を製作・発表されます。それまで、両市で被爆された人がいることはあまり知られていませんでした。山口さんは二度直接被爆したと公式に認められた最初の方です。2010年、胃がんのため94歳で亡くなられました。
山口さんは新聞に戦後何年にもわたり短歌を送られていました。そのことが稲塚さんとの出会いを手繰り寄せるきっかけにもなりました。自費出版の歌集『人間筏』にある短歌です
- 大広島 炎(も)え轟(とどろ)きし 朝明けて 川流れ来る 人間筏(いかだ)
- うち重なり 灼(や)けて死にたる 人間の 脂(あぶら)沁(し)みたる 土は乾かず

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