[2021年3月5日]
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現在でも、道路網は国が中心となって整備していますが、江戸時代でも同様でした。
当時の道路網は、政治の中心である江戸を基点に発達し、特に五街道(東海道・中山道・奥州道・日光道・甲州道)には一里(約4キロ)ごとに道のりを示す一里塚が置かれ、二、三里ごとに大名が泊まる本陣や庶民が泊まる旅籠(はたご)が整備された宿駅(しゅくえき)が設けられました。
一里塚の起源は明確ではなく、信長や秀吉が三六町ごとに築かせたとも言われていますが、江戸幕府が江戸日本橋を起点に慶長九年(1604年)に道の幅を五間(約9メートル)にして塚を作らせたようです。
19世紀中頃の「宿村大概帳(しゅくそんだいがいちょう)」には東海道(品川|京都間)一二四里の間に100カ所、中山道(板橋|草津間)一二六里二八町に107カ所あったと記されており、約8割が存在していたことが分かっています。しかし、徳川家康が祀られている東照宮への参道でもある日光道では三六里ほぼすべてに一里塚が整備されていました。
なお一里は三六町とされていますが、六町一里や五十町一里、四八町一里など五街道以外は、各地で異なっていたようです。
八尾では高野山と京を結ぶ東高野街道沿い(旧170号線)の垣内に一里塚が残っています。正保(しょうほう)元年(1644年)の「河内国絵図」を見ると、街道沿いに11カ所の一里塚がありますが、今では、富田林市の錦織(にしこおり)と垣内だけです。
垣内一里塚は現在では塚は小さいですが、かつては高さ2m、大きさも現在の3倍の規模がありました。松が植えられていることから、地元では一里松とも言いますが、関東では榎、関西では松が一般的だったようです。街道の西側には文化八年(1810年)の法華塔(ほっけとう)がありますが、旅の大変さが偲(しの)ばれます。
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