二九巻 続・河内名所図会を歩く(1) ~十三峠と豊臣秀吉~
戦国時代を経て江戸時代になると、各地の歴史や名所・旧所などへの人々の関心が高まり、これらを紹介する書籍が数多く刊行されました。秋里籬島(りとう)により江戸時代後期(享和元年[1801年])に書かれた『河内名所図会』もその一つで、豊富な挿絵と共に評判となりました。
市北東の山ろく部に位置する十三峠の挿絵では、平安時代の在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの旧所を数多く紹介しています。
また、同じく山ろく部の花岡山の挿絵には、約400年前の慶長20年(1615年)、豊臣家と徳川家の最後の戦いとなった「大坂夏の陣」の戦場であったことが記されています。
江戸時代の人々も『河内名所図会』に紹介された地を巡りながら歴史に思いをはせたことでしょう。
十三峠は、本市の神立と奈良県平群(へぐり)町の境に位置し、峠に13の塚があることからこの名が付けられました。
また、この峠を越え、本市から東大阪市を経て大阪市の玉造付近へと通じる十三街道は、古くから奈良と大阪を結ぶ重要な街道で、峠を下った神立には愛宕塚(あたごづか)古墳や向山瓦窯跡(むかいやまがようあと)など数多くの遺跡も残っています。
十三街道の整備が進んだと考えられるのが、天正11年(1583年)の豊臣秀吉による大坂城の築城です。
城の石垣に利用するために、千塚(せんづか)にある古墳を壊して大量の石材を運び出す際、街道の終着地となる大坂城に至る道路の整備を行いました。
秀吉が石材を採取させた千塚の地は、生駒山地屈指の群集墳である高安千古墳群の北側辺りと考えられます。
『河内名所図会』にも千塚の乱掘の挿絵がありますが、すでに秀吉の時代にはかなりの古墳が壊されていました。