三三巻 続・河内名所図会を訪ねて(5) ~大信寺の建物 その後・中編~
前号では、大信寺の本堂が、天明8年(1788年)に京都で起きた大火の際に、東本願寺の仮御影堂(ごえいどう)として移築され、その後再び八尾に戻った姿が享和元年(1801年)の『河内名所図会』に描かれたことや、それからおよそ150年を経た昭和28年(1953年)に白アリの被害などにより損壊したため解体され、現在のものに再建されるまでの歴史を紹介しました。
←善福寺の本堂
今回は、解体された本堂のその後をたどります。
解体された本堂の建築部材は、八尾を遠く離れ、太平洋戦争の空襲により本堂を失っていた善福寺(ぜんぷくじ)(東京都港区)に運ばれ、昭和36年(1961年)、同寺の本堂として利用されることになりました。
善福寺は『江戸名所図会』で紹介されており、また、幕末には初代のアメリカ公使館が置かれた由緒あるお寺です。
再建された本堂は、損壊の原因であったと考えられる傷んだ柱の基礎部分が短くなっていることや、「虹梁(こうりょう)」と呼ばれる天井に架けられた建築部材の彫刻の模様の一部が欠け、部材が短くなっていることなどから、大信寺の時よりも現地の敷地に合わせて規模が小さくなっていることが分かります。
しかし、本堂内部の内陣(ないじん)を飾った豪華な欄間(らんま)彫刻などは大信寺のころの姿をそのまま残しています。
近年、この本堂は、江戸時代の姿を残すための修理が行われ、平成21年度、これまでの歴史が評価され、港区の指定文化財になりました。
このように、大信寺の本堂は、明和4年(1767年)の創建後、京都へ移築され、その後八尾へ再移築。そして戦後、東京への移築を経て、現代にその姿を残すことになりました。【続く】