三一巻 続・河内名所図会を訪ねて(3) ~大坂夏の陣と木村重成の墓~
これまでに、『河内名所図会』に描かれた豊臣家ゆかリの地である十三(じゅうさん)峠と玉祖(たまのおや)神社を訪ねてきました。今回は、豊臣家と徳川家の最後の戦いとなった大坂の陣ゆかりの地を紹介します。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣を経て、翌年5月の大坂夏の陣では八尾の地も戦場になりました。
十三峠を下ったふもとに陣を置いた徳川方の井伊家は、十三街道を経て若江(東大阪市)に向かい、豊臣方の木村重成の軍と戦います。
一方、徳川方の藤堂家は一部が井伊家と共に若江に向かい、本体は八尾の常光寺や久宝寺寺内町の辺りで豊臣方の長曽我部盛親(ちょうそかべもりちか)の軍と戦いました。両地とも激戦となり、多くの戦死者を出しました。
若江の戦いでは豊臣方の木村重成、徳川方の藤堂良勝や山口重信らが戦死、八尾の戦いでは徳川方の藤堂高刑(たかのり)らが戦死しました。
この戦いで多くの家臣を失った藤堂家は、常光寺に墓を造って菩提(ぼだい)を弔(とむら)っており、藤堂家が宝暦14年(1764年)に建立した墓碑(勢伊死事碑(せいいしじひ)の内容が『河内名所図会』に記されています。
現在、若江の地で戦死した木村重成と山口重信の墓が第二寝屋川を隔てて南北にあり、『河内名所図会』の挿絵にも同じ配置で描かれています。中でも、亀の台座が特徴的な山口重信の墓碑は忠実に描かれています。
大坂の陣は、豊臣秀頼が自害し大坂城の落城により終わりました。
この戦いのことは、江戸時代の人々も大きな関心を寄せていたことが『河内名所図会』から分かります。