三十巻 続・河内名所図会を訪ねて(2) ~玉祖神社と豊臣秀頼~
豊臣秀吉が大坂城築城のために整備した「十三(じゅうさん)街道」の由来となった「十三峠」。その峠を下った先にある本市の神立には、奈良時代を始まりとする「玉祖神社」があります。
平安時代の木造男女(だんじょ)神像(府指定文化財)や鎌倉時代の北条時政制札(せいさつ)(国重要文化財)など数多くの文化財を残す、歴史ある神社です。
玉祖神社の長い歴史の中、戦国時代に荒廃していた神社の再興を果たしたのが、秀吉の息子である秀頼でした。
現在も境内には秀頼が本殿再興時の慶長9年(1604年)に寄進したと伝わる市内最古の石燈籠が残っています。
秀頼による近畿地方を中心とした寺社再興は、大坂の陣開戦の発端となった京都の方広寺(ほうこうじ)が有名ですが、秀頼の所領であった摂津の四天王寺をはじめ、河内や和泉の寺社でも数多く行われており、玉祖神社もその一つと考えられています。
豊臣家の豊かな資産を消耗させようという徳川家康の意図もあったようですが、近年の研究では、秀頼による領国支配の手段でもあったことが指摘されています。
その後、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、十三街道を境にして、徳川方の井伊直孝が街道北側の「楽音寺」に、藤堂高虎が南側の「千塚」に軍勢を置きました。秀頼が再興した玉祖神社の本殿は、この戦いの時に撤去されてしまったようです。
『河内名所図会』の挿絵には玉祖神社の境内の様子が描かれており、大坂夏の陣以降、再興されたことが分かります。
現在の本殿は江戸時代中ごろのものと考えられており、極彩色の色彩が残る立派な建築物です。